新宿の中でも、とくに強い存在感を放つ歌舞伎町。
けれども、「なぜ歌舞伎町という名前なのか」と聞かれると、意外と答えに迷う人は多いのではないでしょうか。
実は、現在の歌舞伎町に歌舞伎座があるわけではありません。
この地名の背景には、戦後の焼け野原から新しい娯楽の街を作ろうとした人々の計画がありました。
この記事では、歌舞伎町という名前の理由、昔の地名、戦後復興との関係、歓楽街として発展した流れを、中学生でもわかるようにやさしく解説します。
読み終えるころには、歌舞伎町のネオンの奥にある、少し意外で人間味のある歴史が見えてくるはずです。
歌舞伎町の由来を最短でわかりやすく
歌舞伎町に歌舞伎座がないのはなぜ?
歌舞伎町と聞くと、「歌舞伎座がある街なのかな」と思う人は少なくありません。
けれども、現在の歌舞伎町に銀座の歌舞伎座のような大きな歌舞伎専門劇場があるわけではありません。
では、なぜこの街に「歌舞伎」という名前がついているのでしょうか。
答えは、戦後の街づくりの計画にあります。
歌舞伎町という名前は、もともとこの場所に歌舞伎を上演する劇場を建て、周囲に芸能施設を集める構想から生まれました。
東京都江戸東京博物館図書室のレファレンス事例でも、昭和23年、つまり1948年に、戦後の娯楽街として歌舞伎を上演する劇場を建設する予定があったため「歌舞伎町」と名づけられたと説明されています。
つまり、歌舞伎町という地名は「そこに歌舞伎座があったから」ではありません。
「これから歌舞伎劇場を中心にした街を作ろう」という未来への計画から名づけられた名前なのです。
ここが、歌舞伎町という地名のいちばん面白いところです。
建物は実現しなかったのに、名前だけは街に残りました。
普通なら、計画がなくなれば名前も消えてしまいそうなものです。
しかし歌舞伎町の場合は、名前が残ったことで、戦後の人々がどんな街を夢見ていたのかを今に伝えることになりました。
今の歌舞伎町を歩くと、ネオンや飲食店、映画館、ホテルの印象が強く目に入ります。
けれども、その名前の奥には、焼け野原から文化と娯楽の街を作ろうとした人々の強い思いが隠れています。
地名の由来は「歌舞伎劇場を作る計画」
歌舞伎町という名前の中心にあるのは、「劇場を作る」という計画です。
戦後の新宿駅周辺は大きな被害を受け、街をどう復興させるかが大きな課題でした。
そのなかで、歌舞伎の演舞場を中心に、映画館や劇場などの芸能施設を集める街づくりが考えられました。
新宿区の「歌舞伎町街並みデザインガイドライン」では、鈴木喜兵衛と石川栄耀が戦災復興土地区画整理によって新しい都市空間を計画し、「歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集める」という考えのもとで「歌舞伎町」と命名したことが説明されています。
ここで大切なのは、歌舞伎町という名前が単なる思いつきではなかったことです。
人を呼び、街ににぎわいを戻し、文化を中心にした新しい新宿を作るという具体的な構想がありました。
当時の人たちにとって、娯楽はただ遊ぶためのものではありませんでした。
戦争で失われた日常を取り戻し、家族や友人と安心して楽しめる場所を作ることも、復興の大事な一部だったのです。
そのため、歌舞伎町という名前には、かなり前向きな意味が込められています。
今の感覚で見ると、歌舞伎町は夜の街という印象が強いかもしれません。
しかし出発点にあったのは、芸能や文化を中心にした街を作ろうという明るい計画でした。
この背景を知ると、歌舞伎町という名前の見え方が少し変わります。
ただの派手な地名ではなく、戦後の復興計画そのものが名前になった地名なのです。
1948年に生まれた比較的新しい町名
歌舞伎町は、江戸時代からずっと続いている古い町名ではありません。
新宿区の文化観光資源案内によると、昭和20年、つまり1945年4月13日の空襲で焼け野原となった新宿駅周辺で、当時の角筈一丁目が再開発され、昭和23年、つまり1948年4月1日に新町名として歌舞伎町が成立しました。
東京都江戸東京博物館図書室のレファレンス事例でも、歌舞伎町という町名が昭和23年に命名されたことが確認できます。
東京の地名には、江戸時代やそれ以前の村名に由来するものも多くあります。
その中で歌舞伎町は、戦後復興の中から生まれた比較的新しい町名です。
この「新しさ」は、歌舞伎町を理解するうえでとても重要です。
歌舞伎町は、自然に少しずつ発展してできた街というより、焼け跡から計画的に作り直そうとした街でした。
だからこそ、地名にも「どんな街にしたいか」という願いが強く出ています。
地名には、土地の形や古い伝説から生まれたものがあります。
一方で歌舞伎町は、「これから作る街の理想」から生まれた名前です。
この違いを知ると、歌舞伎町という名前がぐっと立体的に見えてきます。
たとえば「山」「川」「谷」のような自然を表す名前ではなく、「歌舞伎」という文化を表す言葉が町名になっている点にも特徴があります。
名前そのものが、街の方向性を示す看板のような役割を持っていたのです。
| 確認したいこと | 答え |
|---|---|
| 歌舞伎町に歌舞伎座はある? | 現在、銀座の歌舞伎座のような歌舞伎専門劇場はない |
| 名前の理由は? | 戦後に歌舞伎劇場を中心にした街を作る計画があったため |
| 町名が生まれた年は? | 1948年 |
| 名前の特徴は? | 過去の建物ではなく、未来の計画から生まれた地名 |
歌舞伎町になる前の地名と昔の姿
旧地名は角筈・東大久保・西大久保など
歌舞伎町という名前が生まれる前、この一帯は現在とは違う町名で呼ばれていました。
特に重要なのが「角筈」という地名です。
新宿区の公式情報では、新宿区の地形を説明する中で、豊島・淀橋台地が四谷、牛込、角筈、柏木、大久保、戸塚、落合などの台地からなると説明されています。
角筈は、今の西新宿方面の印象が強い地名ですが、かつては新宿駅周辺の広い範囲に関わる地名でした。
歌舞伎町の成り立ちを調べると、この角筈一丁目がとても大きな意味を持ちます。
新宿区の文化観光資源案内では、1945年4月13日の空襲で焼け野原となった新宿駅周辺で、当時の角筈一丁目が再開発され、1948年4月1日に新町名として歌舞伎町が成立したとされています。
また、国立国会図書館サーチに掲載されている新宿区の住居表示資料を見ると、1978年施行の住居表示では、新しい歌舞伎町一丁目・二丁目などに対して、旧町名として角筈一丁目、東大久保、西大久保などが関係していたことがわかります。
つまり、現在の歌舞伎町をひとつの名前だけで見ると、昔の姿は見えにくくなります。
実際には、角筈や大久保方面の地名の記憶が重なり合いながら、今の歌舞伎町という町域が形づくられてきました。
地名が変わると、昔の名前は地図から消えてしまうことがあります。
しかし、土地の歴史まで消えるわけではありません。
歌舞伎町という新しい名前の下には、角筈や大久保という古い土地の記憶が今も重なっています。
かつては湿地や鴨場があった場所
現在の歌舞伎町は、ビルや看板がぎっしり並ぶ都心の街です。
しかし、昔からずっと同じような景色だったわけではありません。
新宿区は地勢の説明で、区内の地形は台地と低地からなり、豊島台地や淀橋台地、下町低地に分けられるとしています。
この説明からもわかるように、新宿区内には高低差があり、台地と低地が入り組んだ地形があります。
歌舞伎町の周辺も、現在のまっすぐな道路や整った区画だけを見ると平らな街に感じますが、もともとは地形の起伏や水の流れと関係の深い場所でした。
新宿区立図書館の調べ方案内では、明治・大正時代の歌舞伎町一帯の様子や、歌舞伎町弁財天の由来を調べる資料が紹介されています。
また、同じ案内では蟹川や新宿の地形について調べられる資料も紹介されており、この地域の歴史を知るうえで地形や水辺の記憶が重要であることがわかります。
現在の街並みだけを見ていると、昔の湿地や水辺の雰囲気はほとんど想像できません。
けれども、地名や神社、石碑、古い地図をたどると、ビルの下に別の時代の風景が眠っていることが見えてきます。
歌舞伎町は、最初からネオンの街だったわけではありません。
水辺や低地の記憶を持つ土地が、時代の変化とともに住宅地になり、戦後には娯楽の街へと作り替えられていきました。
そう考えると、歌舞伎町の歴史はただの繁華街の歴史ではありません。
自然の地形、旧町名、戦争、復興、娯楽文化が重なった、かなり厚みのある土地の物語なのです。
山の手の静かな住宅地だった時代
歌舞伎町というと、多くの人は夜遅くまで明るい繁華街を思い浮かべます。
しかし、戦前のこの一帯は、現在のイメージとはかなり違う場所でした。
新宿区の公式説明によると、昭和7年ごろには新宿駅周辺に百貨店、映画館、劇場、カフェーなどが集まり、山の手の一大繁華街へと変わっていきました。
ただし、その発展の中心は新宿駅周辺であり、現在の歌舞伎町周辺にあたる角筈界隈は、戦後の復興計画によって大きく姿を変えていくことになります。
歌舞伎町建設記念碑に刻まれた内容を紹介する資料では、大正12年の関東大震災をきっかけに山の手方面の発展が進み、新宿駅東口周辺は活気を増した一方で、隣接する角筈界隈はその繁栄から取り残されていたと説明されています。
この部分は、現在の歌舞伎町の印象と比べるととても意外です。
今では歌舞伎町こそ新宿を代表するにぎやかな場所のひとつですが、かつては新宿駅周辺の発展から少し外れた場所でもありました。
そこに大きな転機をもたらしたのが、戦争による被害と戦後の復興計画でした。
もし空襲による壊滅的な被害がなく、もし戦後の街づくりが別の方向に進んでいたら、歌舞伎町という名前は生まれていなかったかもしれません。
地名は、ただ土地につけられるラベルではありません。
その時代に何が起き、人々が何を選んだかによって変わります。
歌舞伎町は、静かな土地から一気に芸能と娯楽の街へ変わっていった、東京でもかなり劇的な歴史を持つ場所です。
戦後復興が「歌舞伎町」という名前を生んだ
空襲で焼け野原になった新宿駅周辺
歌舞伎町の名前を理解するには、戦後の復興を避けて通ることはできません。
新宿区の文化観光資源案内では、1945年4月13日の空襲で焼け野原となった新宿駅周辺で、当時の角筈一丁目が再開発され、1948年4月1日に歌舞伎町が成立したと説明されています。
新宿区の公式ページでも、昭和20年5月から8月にかけての東京大空襲によって区の様子は一変し、戦前に華やかだった新宿駅周辺なども焼け野原になったと記されています。
この被害は、単に建物が燃えたというだけではありません。
住む場所、働く場所、人が集まる場所、商売の基盤が一度に失われました。
戦前の街の記憶が消え、そこからどう立ち上がるかを地域の人たちは考えなければなりませんでした。
歌舞伎町は、そうした厳しい状況の中から生まれた名前です。
最初からきらびやかな街として誕生したわけではなく、焼け跡から立ち上がるための復興計画の中で名づけられました。
この背景を知ると、「歌舞伎町」という言葉の明るさが少し違って見えます。
それは単なる娯楽の名前ではなく、失われた街をもう一度作り直そうとする強い意志の名前でもありました。
街の名前には、時代の空気が閉じ込められます。
歌舞伎町の場合、その空気は戦後の混乱と、そこから前に進もうとした人々の熱気です。
だからこそ、この地名はただの住所ではなく、復興の記録として読むことができます。
鈴木喜兵衛たちが描いた娯楽の街づくり
歌舞伎町の街づくりで欠かせない人物が、鈴木喜兵衛です。
新宿区の「歌舞伎町街並みデザインガイドライン」では、大空襲で焼け野原となった新宿角筈の町会長であった鈴木喜兵衛が、東京都都市計画課長だった石川栄耀のもとへ戦災復興の相談に出向いたことが、後の歓楽街建設のはじまりだったと説明されています。
鈴木喜兵衛と石川栄耀は、戦災復興土地区画整理によって、瓦礫の上に新しい都市空間を計画しました。
その構想は、歌舞伎の演舞場を中心に芸能施設を集めるというものでした。
ここで注目したいのは、街づくりの中心に「文化」と「娯楽」が置かれていたことです。
復興というと、道路や住宅、商店の再建をまず考えがちです。
もちろん、それらも重要です。
しかし歌舞伎町の計画では、人が楽しみ、集まり、街に活気を取り戻す場所を作ることが大きな目的でした。
歌舞伎町建設記念碑に関する新宿区の案内でも、この碑は復興事業の経緯と、それに尽力した組合役員の名前を記すものだとされています。
つまり歌舞伎町は、行政だけが上から作った街ではありません。
地元の人たち、土地に関わる人たち、都市計画に携わる人たちが関わりながら、復興のために形づくられていった街でした。
この事実を知ると、歌舞伎町の見え方は変わります。
派手な看板の裏には、戦後の混乱の中で「もう一度、人が集まる街を作ろう」とした人々の努力があります。
名前に残った「歌舞伎」は、その努力の方向を示す合言葉のようなものだったのです。
歌舞伎劇場の計画が実現しなかった理由
歌舞伎町という名前のもとになった歌舞伎劇場は、結局、実現しませんでした。
東京都江戸東京博物館図書室のレファレンス事例でも、歌舞伎を上演する劇場を建設する予定だったため「歌舞伎町」と名づけられたものの、計画はとん挫したと説明されています。
新宿区の「歌舞伎町街並みデザインガイドライン」でも、歌舞伎劇場の誘致は実現しなかったと記されています。
なぜ実現しなかったのかについては、戦後の経済状況や建築制限など、当時の社会状況が大きく関係しています。
歌舞伎町建設記念碑に刻まれた内容を紹介する資料では、終戦以来の金融緊急措置、悪性インフレ、敗戦による混乱、建築制限などにより、芸能施設の建設が難しい事態になったことが説明されています。
つまり、計画そのものが軽い思いつきだったから消えたわけではありません。
むしろ、時代の制約があまりにも大きかったため、当初の中心施設だった歌舞伎劇場の建設が進まなかったのです。
それでも、歌舞伎町という町名は残りました。
ここに、この地名の面白さがあります。
本来なら、計画の中核だった劇場ができなければ、名前の意味も薄れてしまいそうです。
しかし実際には、名前が残ったことで「幻の劇場」の存在が今も語られています。
地名は、ときに完成した建物より長く残ります。
歌舞伎町の場合、建てられなかった劇場が、町名の中で生き続けているのです。
なぜ歓楽街として発展したのか
歌舞伎劇場はなくても娯楽施設が集まった
歌舞伎劇場は実現しませんでしたが、歌舞伎町は娯楽の街として発展していきました。
この流れは、名前の由来と矛盾しているようで、実はつながっています。
もともとの構想は、歌舞伎の演舞場を中心に芸能施設を集めることでした。
新宿区のガイドラインにも、歌舞伎の演舞場を中核として芸能施設を集める構想が示されています。
中心となる歌舞伎劇場はできませんでしたが、「芸能や娯楽を集める街」という方向性は残りました。
そのため、歌舞伎町は映画館、劇場、飲食店など、人が楽しむための施設が集まる場所として成長していきます。
歌舞伎町建設記念碑の内容を紹介する資料では、鈴木喜兵衛が計画した「芸能の町」は、広場を中心に周囲を劇場や映画館などで囲む一大興行街だったと説明されています。
この説明からも、歌舞伎町の発展が偶然だけで起きたものではないことがわかります。
人が集まる広場を中心に、周囲に娯楽施設を置くという街の作り方が考えられていました。
これは、今の歌舞伎町にもどこか通じています。
シネシティ広場周辺に人が集まり、映画館や飲食店、ホテルが街の印象を作っているからです。
もちろん時代によって街の姿は変わりました。
しかし、「人を集める娯楽の街」という基本の性格は、戦後復興の構想から今まで続いていると見ることができます。
歌舞伎町の名前は、幻の歌舞伎劇場だけでなく、街全体を娯楽の場所にしようとした計画の名残でもあるのです。
映画館や劇場が街のにぎわいを作った
歌舞伎町が大きくにぎわう街になった理由のひとつは、映画館や劇場の存在です。
新宿区の公式説明では、昭和7年ごろの新宿駅周辺には百貨店、映画館、劇場、カフェーなどがひしめき、山の手の一大繁華街へ変わっていったとされています。
その後、戦災で大きな被害を受けた新宿周辺は、復興の中で再び人が集まる場所へと作り直されました。
歌舞伎町では、芸能施設を集める構想があり、広場と興行施設を組み合わせた街づくりが進められました。
映画館や劇場がある街には、独特の流れが生まれます。
開演前に人が集まり、終演後に飲食店へ流れ、休日には家族や友人が街を歩きます。
つまり、娯楽施設は単独でにぎわうだけではありません。
周辺の喫茶店、食堂、商店、宿泊施設にも人の流れを広げていきます。
歌舞伎町が歓楽街として大きくなった背景には、この人の流れがありました。
歌舞伎劇場はできなかったものの、街全体が「見る」「食べる」「集まる」場所になっていったのです。
この流れを知ると、歌舞伎町がただ夜の店だけで発展した街ではないことがわかります。
出発点には、映画や演劇などの大衆娯楽がありました。
人々が仕事の後や休日に楽しみに来る場所として、歌舞伎町は成長していったのです。
現在のイメージだけで歌舞伎町を見ると、少し偏って見えてしまいます。
歴史をたどると、そこには戦後東京のエンタメ文化を支えた街としての顔が見えてきます。
新宿コマ劇場が歌舞伎町の象徴になった
歌舞伎町の娯楽の街としてのイメージを語るうえで、新宿コマ劇場は欠かせません。
新宿歴史博物館の写真データベースでは、新宿コマ劇場は昭和31年、つまり1956年に開場し、長らく新宿歌舞伎町のシンボル的存在だったと説明されています。
新宿区の「歌舞伎町街並みデザインガイドライン」でも、新宿コマ劇場が52年の幕を閉じたことに触れ、その跡地がシネコンとホテルという新しい顔になることを契機に、街並み整備の方針が策定されたとされています。
新宿コマ劇場は、歌舞伎劇場ではありませんでした。
それでも、歌舞伎町が「芸能の街」として知られるうえで、とても大きな役割を果たしました。
演歌や歌謡ショーなど、多くの人が楽しめる大衆芸能の場として親しまれたからです。
当初計画された歌舞伎劇場とは形が違っても、街の中心に劇場があり、人を集め、周辺をにぎわせるという意味では、戦後の構想に近い役割を担っていたとも言えます。
2008年に新宿コマ劇場は閉館しました。
その後、跡地には新宿東宝ビルが建設され、映画館やホテルを中心とする新しいランドマークになりました。
竹中工務店の発表でも、新宿東宝ビルは新宿コマ劇場と東宝会館の跡地の再開発計画であり、エンターテイメントシティ再生の新たな拠点として期待されていると説明されています。
この流れを見ると、歌舞伎町は時代ごとに姿を変えながらも、娯楽の街であり続けていることがわかります。
名前の由来となった歌舞伎劇場は幻に終わりましたが、劇場文化や映画文化は別の形で街に根づいていきました。
地名の由来を知ると歌舞伎町の見え方が変わる
歌舞伎町建設記念碑に残る復興の記憶
歌舞伎町の歴史を実際に感じたいなら、歌舞伎町建設記念碑を知っておくと街の見え方が変わります。
新宿区の文化観光資源案内によると、歌舞伎町建設記念碑は新宿区歌舞伎町1丁目20と21の間にあり、1957年1月に新宿第一復興土地区画整理組合によって建立されました。
この記念碑は、2011年10月3日に新宿区地域文化財として指定・登録されています。
新宿区の地域文化財一覧でも、歌舞伎町建設記念碑は、1945年4月13日の空襲で焼け野原となった新宿駅周辺で、当時の角筈一丁目が新たに歌舞伎町として再開発された復興事業の経緯と、組合役員の名前を記すものだと説明されています。
つまりこの碑は、単なる飾りではありません。
歌舞伎町がどのように生まれたのかを、街の中で伝えている記録です。
今の歌舞伎町を歩くと、巨大な看板や映画館、飲食店の存在感が強く、戦後復興の記憶は見えにくくなっています。
しかし、シネシティ広場周辺にあるこの記念碑に目を向けると、街の奥にある歴史が立ち上がってきます。
歌舞伎町は、ただにぎやかなだけの街ではありません。
焼け野原から復興しようとした人たちの名前や思いが、今も街の中心近くに残されています。
地名の由来を知ったうえでこの記念碑を見ると、「歌舞伎町」という文字が、まったく別の重みを持って見えてくるはずです。
「怖い街」だけではない歌舞伎町の歴史
歌舞伎町には、どうしても「怖い街」「夜の街」というイメージがつきまといます。
確かに、現在の歌舞伎町には多くの飲食店や夜間営業の店が集まり、にぎやかさと雑多さがあります。
けれども、そのイメージだけで語ってしまうと、この街の大切な歴史を見落としてしまいます。
歌舞伎町は、戦後の復興計画の中で、芸能や娯楽を中心にした街として構想されました。
新宿区のガイドラインでは、歌舞伎の演舞場を建設し、芸能施設を集めるという考えで「歌舞伎町」と命名したことが説明されています。
また、歌舞伎町建設記念碑に関する新宿区の案内では、この街が戦後の焼け野原から国内有数の繁華街を生み出した地元住民の声を伝えるモニュメントであるとされています。
ここから見えてくるのは、歌舞伎町がただ自然に歓楽街になったのではなく、人々が街を立て直すために作った場所だったということです。
街のイメージは時代によって変わります。
映画館の街、劇場の街、夜の街、観光地、再開発エリア。
どの時代にも、歌舞伎町にはいくつもの顔がありました。
「怖い」という印象だけで終わらせてしまうと、歌舞伎町が持つ復興の物語や文化の記憶が見えなくなります。
もちろん、街の課題を無視する必要はありません。
ただ、課題だけで街を決めつけるのではなく、名前の由来や歴史を知ることで、もっと広い視点で歌舞伎町を見ることができます。
地名を知ることは、街への先入観を少しほどくことでもあります。
名前に残った夢を知って街を歩く楽しみ
歌舞伎町という名前は、実現しなかった計画の名残です。
けれども、それは失敗の記録というより、戦後の人々が描いた夢の記録として見ることができます。
歌舞伎劇場を中心に、芸能施設を集め、人が安心して楽しめる街を作る。
その構想は、当時の社会状況の中ですべて実現したわけではありません。
それでも、町名は残り、街は娯楽の場所として発展しました。
新宿コマ劇場が生まれ、映画館が集まり、現在では新宿東宝ビルのような新しいランドマークもできています。
形は変わっても、人が集まり、楽しみ、街を歩くという性格は続いています。
こうして見ると、歌舞伎町という名前は、過去の計画と現在の街をつなぐ橋のような存在です。
一番街のゲートをくぐるときも、シネシティ広場の近くを歩くときも、建設記念碑の存在を知っているだけで景色は変わります。
目の前にあるのは、ただの繁華街ではありません。
焼け野原から始まり、文化と娯楽の街を目指した場所です。
地名の由来を知る楽しさは、ここにあります。
普段なら通り過ぎてしまう看板や広場に、昔の人の考えや時代の空気が見えてくるのです。
歌舞伎町の名前は、幻の歌舞伎劇場を今に伝えています。
そして同時に、街は何度でも作り直せるという、戦後東京の力強さも伝えています。
歌舞伎町という地名の由来まとめ
歌舞伎町という名前は、実際に歌舞伎座があったから生まれたものではありません。
戦後の復興計画の中で、歌舞伎を上演する劇場を中心に芸能施設を集める構想があり、その計画から「歌舞伎町」という町名が生まれました。
町名が成立したのは1948年です。
それ以前のこの一帯には、角筈や大久保方面の旧町名が関わっていました。
1945年の空襲で新宿駅周辺が大きな被害を受けたあと、地域の人々や都市計画に携わる人たちが復興に取り組みました。
その中で、鈴木喜兵衛や石川栄耀らが描いた芸能の街づくりが、歌舞伎町という名前につながりました。
歌舞伎劇場そのものは実現しませんでした。
しかし、映画館や劇場、飲食店が集まることで、歌舞伎町は娯楽の街として発展していきました。
新宿コマ劇場は、その象徴的な存在でした。
現在の歌舞伎町には、夜の街という印象だけでなく、戦後復興、都市計画、大衆娯楽、旧地名の記憶が重なっています。
地名の由来を知ると、同じ街を歩いていても見える景色が変わります。
歌舞伎町という名前には、実現しなかった劇場と、それでも街を前へ進めようとした人々の夢が残っているのです。
- 東京都新宿区にある歌舞伎町は歌舞伎座があるわけでもないのに、なぜ歌舞伎町というのか。|レファレンス協同データベース
- 歌舞伎町街並みデザインガイドライン|新宿区
- 歌舞伎町建設記念碑|新宿文化観光資源案内サイト
- 新宿区について(名前の由来・歴史・地勢)|新宿区
- 住居表示新旧対照表 : 新宿5~7丁目,歌舞伎町1~2丁目,大久保1~3丁目|NDLサーチ
- 歌舞伎町について調べるには|新宿区立図書館
- 歌舞伎町の誕生を伝える「歌舞伎町建設記念碑」|歌舞伎町文化新聞
- 新宿コマ・スタジアム(新宿コマ劇場)|新宿歴史博物館 写真データベース
- 新宿コマ劇場・東宝会館跡地にシネコンなどの複合施設「新宿東宝ビル」が竣工|竹中工務店
