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岩倉具視って何をした人?簡単にわかる明治維新のキーマンの正体

「岩倉具視って、誰?」「何をした人か、簡単に知りたい!」
そんな方のために、この記事では、幕末から明治にかけて活躍した政治家・岩倉具視の人生と功績をわかりやすく紹介します。

岩倉具視は、公家から政治家へと転身し、廃藩置県や岩倉使節団の派遣、明治政府の土台作りに大きく貢献しました。

この記事を読めば、「なぜ彼が500円札の顔になったのか」や「明治日本がどうやって近代国家へと進化したのか」が、スッと理解できるはずです。

中学生にもわかるように、シンプルな言葉で丁寧に解説していますので、歴史が苦手な人もぜひご覧ください。

目次

岩倉具視ってどんな人?簡単にプロフィールを紹介

幕末から明治維新にかけて活躍

岩倉具視(いわくら ともみ)は、幕末から明治時代初期にかけて活躍した公家出身の政治家です。

1825年、京都の公家・堀河家の支流である家に生まれました。

幼いころから朝廷に仕える立場として育ち、長じては中堅公家として宮中での地位を固めていきます。

幕末の動乱期に入ると、外国勢力が日本に押し寄せる中で、岩倉も尊王攘夷(天皇を敬い、外国を排斥する)運動に傾倒するようになります。

しかし次第に、攘夷は現実的ではないと判断し、時代の流れを読み、倒幕と開国を主張するようになります。

そして1867年の「王政復古の大号令」では中心的な役割を果たし、江戸幕府の終焉と明治政府の誕生を後押ししました。

明治時代に入ると、政府の中枢を担い、近代国家の基盤づくりに大きく関わっていきます。

明治維新を政治の中から支えた立役者の一人として、歴史的に高く評価されています。

その生涯は、日本が近代国家へと歩み始める激動の時代と、まさに重なっているのです。

公家から政治家へ転身

岩倉具視はもともと公家であり、政治権力とは距離のある立場にありました。

江戸時代の公家は、将軍の支配下で象徴的な存在にとどまり、実際の政治を行うことはほとんどありませんでした。

しかし、幕末の混乱期には、公家たちも政治の最前線に登場するようになります。

その中でも岩倉は、単なる形式的な存在ではなく、自ら積極的に政治に参加し、実務にも関わる「行動する公家」として注目を集めました。

一時は朝廷内の対立により失脚し、京都から蟄居を命じられますが、その後再起し、明治新政府の中心人物として返り咲きます。

1868年の明治政府発足後は、「参与」として政治の中枢に加わり、1871年には右大臣に就任。

以降、内政・外交の両面で日本の制度づくりに深く関わっていきました。

政治家としての岩倉は、理論よりも実行力を重視し、現実に即した判断を下す柔軟さがありました。

この姿勢が、彼を近代日本の創設者の一人へと導いたのです。

明治天皇との深い関係

岩倉具視は、明治天皇と非常に近い関係を築いていました。

特に、明治政府が発足したばかりの頃、若くして即位した明治天皇には、まだ政治的経験がありませんでした。

そのため、岩倉は天皇に助言し、時には制度や方針について共に考える存在となっていきます。

特に有名なのが、1868年に発表された「五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)」です。

これは、新政府の基本方針を示す重要な文書であり、国民に開かれた政治や知識の普及を宣言したものです。

岩倉具視はこの文書の起草や調整に深く関わっており、天皇の意志と政府方針をうまく一致させるために力を尽くしました。

明治天皇は岩倉を信頼し、右大臣としての彼の意見を多く採用していたとされます。

このように、岩倉は単なる政治家ではなく、天皇の補佐役、いわば“幕僚長”のような立場で新しい国づくりを支えていたのです。

政治改革のキーパーソン

岩倉具視の最大の評価ポイントは、政治改革の実行力にあります。

明治政府の設立直後、彼は「中央集権国家」の実現を目指してさまざまな改革を推進しました。

特に重要なのが、「廃藩置県(はいはんちけん)」です。

これは、江戸時代の藩制度を廃止して、すべての地方を国が直接支配する「県」に切り替えるという、大規模な制度改革でした。

岩倉は、藩主たちとの交渉や説得を重ね、この政策を混乱なく実現させるために尽力します。

さらに、税制度や教育制度、軍制度など、国家運営の基盤を整えるさまざまな取り組みにも関与しました。

その姿勢は、「日本の将来のために必要なら、今の不安定さを受け入れるべきだ」という信念に支えられていました。

保守的な公家とは対照的に、岩倉は大胆な行動力で時代を動かすキーパーソンだったのです。

500円札の顔としても有名

岩倉具視は、昭和時代に発行された500円紙幣の肖像に選ばれたことでも知られています。

最初に登場したのは1951年(昭和26年)の「B号券」、その後1969年の「C号券」でも引き続き彼の肖像が採用されました。

この500円札は1994年に廃止されましたが、長い間多くの人の手に渡ったため、当時の人々には非常に馴染み深い存在でした。

なぜ彼が紙幣に選ばれたのか。

それはやはり、明治維新という日本の大転換期において、内政・外交の両面で重要な役割を果たしたことが評価されたからです。

また、公家出身でありながら改革に尽くしたその姿勢は、日本の伝統と近代化の“橋渡し役”という象徴にもなり得るものでした。

現在では紙幣として流通していませんが、歴史資料や古銭コレクションとして今でも注目されています。

肖像の厳しい表情からは、国の未来を真剣に考えていた人物像が垣間見えるでしょう。

岩倉具視の最大の功績「岩倉使節団」とは?

何のために派遣された?

岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、1871年(明治4年)に明治政府が欧米諸国へ派遣した公式の代表団です。

その主な目的は次の2つでした。

1つ目は、不平等条約の改正交渉です。

幕末に結ばれた安政の五カ国条約(アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダ)などでは、日本にとって不利な条件が多く盛り込まれていました。

たとえば、外国人には治外法権(日本の法律が適用されない権利)が与えられ、日本側には関税自主権(関税を自由に決める権利)がありませんでした。

明治政府はこれらを改正し、主権を取り戻すために交渉を試みました。

2つ目は、欧米諸国の制度や文化を視察し、日本の近代化に役立てることです。

制度、軍事、教育、産業、文化など、さまざまな分野を直接観察し、日本に合った形で導入することが狙いでした。

つまり、岩倉使節団は「交渉」と「学び」の両方を担った、日本の未来を切り開くための重要な外交ミッションだったのです。

どこの国を訪れたの?

岩倉使節団が訪れた国々は、当時の先進国が中心でした。

出発は1871年12月23日(旧暦11月12日)、横浜港から出帆し、まずはアメリカへ向かいました。

その後、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・イタリア・スイス・オーストリアなど、欧米の主要国を順に訪問していきます。

帰国は1873年9月13日で、約1年10ヶ月に及ぶ長い旅でした。

また帰路の途中には、スエズ運河やセイロン(現在のスリランカ)、香港、上海なども経由しています。

各国では政府要人と面会し、条約改正を打診する一方で、学校や工場、裁判所、議会などを見学し、欧米の社会制度をつぶさに観察しました。

このように、使節団の訪問は「外交」だけでなく「視察・研修」の意味合いも非常に強かったのです。

使節団のメンバーたち

岩倉使節団のリーダーは、右大臣の岩倉具視。

彼が「全権大使」として正式に任命され、外交的な責任を担いました。

また、副使として大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳が同行しました。

これらの人物は、のちの明治政府の中心となるメンバーばかりです。

さらに、視察団には通訳や書記官、留学生なども含め、総勢100人を超える大所帯でした。

注目すべきは、「留学生」として同行した若者たちの存在です。

彼らは将来の日本を担う人材として、欧米での教育を受けるために派遣されました。

特に有名なのは、日本初の女子留学生「津田梅子(つだ うめこ)」です。

後に日本女子大学の創設にも関わる彼女も、この使節団の一員としてアメリカに渡りました。

使節団は、若い世代に世界を体験させるという意味でも、非常に先進的な取り組みだったのです。

見聞きしたことが日本にどう影響したか

岩倉使節団が欧米で見聞きした内容は、日本の近代化に大きな影響を与えました。

たとえば、アメリカでは公共教育制度に驚き、これをもとに帰国後すぐに「学制(がくせい)」が導入されます。

これは、日本全国で子どもたちが学校に通う制度を整えるもので、現代の義務教育の土台です。

また、イギリスやドイツの議会制度や内閣制度は、日本の政治制度整備の参考となりました。

ドイツの軍制は、日本陸軍の編成や訓練制度に応用されました。

さらに、鉄道や郵便、銀行制度などのインフラも、使節団の視察内容が反映されています。

岩倉使節団の視察は、単なる「見学」ではなく、日本を変えるための「学びの旅」だったのです。

帰国後の明治政府が急速に近代化政策を進められたのは、この使節団の体験があったからこそと言えるでしょう。

外交の重要性を再確認した使節団

岩倉使節団は、不平等条約の改正交渉にも取り組みましたが、残念ながら大きな成果は得られませんでした。

欧米諸国からは、「まだ日本は近代国家とは言えない」「制度も経済も未成熟」と判断され、条約の見直しは先延ばしにされてしまいます。

この経験は、岩倉具視たちにとって悔しいものでしたが、同時に「今は交渉の時期ではない。まずは国を強くしよう」という決意を生みます。

これにより、帰国後は「富国強兵」や「殖産興業」など、国内の制度整備と経済発展に力を注ぐ方向へと方針が固まります。

外交の場で認められるためには、まず国の中身を整える必要があるという現実に向き合ったのです。

この「内政の強化こそが外交力になる」という考え方は、明治政府の方針の柱となっていきました。

つまり、岩倉使節団は成功と失敗の両方を経験しながら、日本の方向性を決定づけた重要な転換点だったのです。

廃藩置県など、明治の大改革を主導した人物

「中央集権国家」の実現に向けて

明治時代のはじめ、日本政府が目指したのは「中央集権型の国家」でした。

それまでの日本は、江戸時代の名残として各地に「藩」が存在し、藩主が地域を治めていました。

しかし、藩が独自の軍隊や財政を持っていることは、近代国家としては大きな障害でした。

そのため、1871年に明治政府は「廃藩置県(はいはんちけん)」を断行します。

これにより、全国の藩を廃止し、それぞれを「県」として中央政府の直接管理下に置く制度へと転換しました。

この大改革によって、政府は全国を一元的に統治できる体制を整えることができました。

この時、岩倉具視は政策決定の中心にいた人物のひとりでした。

彼は大久保利通らとともに、地方の旧藩主たちとの調整を慎重に行い、政変や反乱を未然に防ぎながら改革を成功に導きました。

結果として、日本は地域ごとの独立性を排し、「国として一つにまとまった国家」へと生まれ変わったのです。

武士から官僚へ制度を転換

「廃藩置県」により、藩という地方自治の枠組みがなくなっただけでなく、「武士」という身分も制度上消滅していきました。

その代わりに登場したのが、国家が雇用する「官僚」という新しい役割です。

これまで政治や治安を担っていた武士たちは、廃藩後は仕事を失うことになりましたが、優秀な者は中央政府や各地の県で「官吏(かんり)」として登用されていきました。

岩倉具視は、こうした人材の移行と制度の整備に積極的に関わりました。

彼は、ただ制度を壊すのではなく、新しい仕組みと職を提供することで、混乱を防ぎながらスムーズな転換を目指したのです。

また、役所の仕組みも、古い幕府や藩の体制ではなく、ドイツやフランスなどの近代国家を参考にして構築されました。

「能力主義」や「法の支配」といった概念も、このころから少しずつ導入されていきます。

武士から官僚への制度転換は、日本が「身分の国」から「制度の国」へと生まれ変わる重要なステップだったのです。

公家としての視点からのバランス感覚

岩倉具視がこれらの大改革を実行できた背景には、彼が「公家出身」であったことが大きく関係しています。

江戸時代、政治の実権は武士(特に幕府)にあり、公家は表向きの役割しかありませんでした。

しかし岩倉は、そうした「外から政治を見る」経験を生かして、武士と公家の間を調整する立場として機能しました。

また、伝統を重んじつつも、時代に合わせて変わる柔軟性を持っていたのも彼の特長です。

たとえば、新しい制度を導入する際には、旧来の立場を尊重しながらも、必要な変化を粘り強く進めていきました。

これは、公家という身分による「中立性」や「格式」が、対立を和らげるクッションのように働いたからとも言えます。

武士たちとだけでなく、天皇や旧幕府勢力とのバランスも取りながら、冷静に国家運営に携わった岩倉具視の姿勢は、多くの改革の成功に繋がったのです。

明治政府の土台を築く役割

明治政府が本格的に始動したのは、1868年の明治維新以降です。

その初期の政治体制を整える中で、岩倉具視は中心的な役割を果たしました。

当時は、今のような内閣制度もなく、どうやって国家を運営していくかというルールすら曖昧な時代でした。

岩倉は、「太政官制(だじょうかんせい)」という暫定的な政府制度の構築に関わり、行政・立法・司法を分ける近代的な考え方の土台を作っていきました。

また、「五箇条の御誓文」の作成にも深く関与し、新しい日本が何を目指すのかを国民に示す役目も担いました。

これらの制度は、のちの内閣制度や帝国憲法、官僚制度へとつながっていくものであり、明治政府の設計図とも言える内容です。

岩倉具視の手腕は、理念だけでなく、それを具体的な制度に落とし込んで実行できた点にあります。

彼の存在がなければ、明治新政府の立ち上げはより混乱を極めていた可能性があります。

藩主たちへの説得と調整役

廃藩置県の実施にあたって最大の課題となったのが、藩主たちの説得です。

藩を廃止するということは、彼らにとって領地と権力を失うことを意味します。

反発や抵抗が起きれば、内戦に発展する可能性もありました。

岩倉具視は、ここで優れた調整力を発揮しました。

彼は、旧藩主たちに「華族」という新たな名誉階級を与え、生活費(家禄)も一定程度保障することで、反発を和らげました。

また、「地方行政に口出しをしない代わりに、国全体の安定を優先してほしい」という説得も行っています。

彼は、力で押し切るのではなく、話し合いと信頼関係を通じて変化を実現したのです。

結果的に、廃藩置県はほとんど反乱や暴動を起こすことなく実現しました。

これは、岩倉具視の人柄と、冷静な政治感覚の賜物と言えるでしょう。

攘夷から開国へ、考え方を変えた理由

最初は「攘夷派」だった岩倉具視

岩倉具視は、もともと「攘夷(じょうい)=外国を打ち払うべきだ」という考えに賛同していました。

幕末、日本に黒船が来航して以降、欧米諸国の圧力が高まり、日本国内では「尊王攘夷運動」が活発になります。

これは「天皇を敬い、外国の干渉を拒否する」という考え方です。

公家出身の岩倉にとって、天皇を中心にした政治体制を目指す尊王思想は自然なものでした。

そして外国人の振る舞いや不平等条約の存在に憤りを感じ、「このままでは日本が飲み込まれてしまう」と強く危機感を抱いていたのです。

そのため、幕末初期には攘夷派として活動し、開国に傾いた幕府を激しく批判する立場に立っていました。

彼は一時、政治の中枢から退けられ、蟄居(ちっきょ)=謹慎状態にもなりますが、その間も国の未来を深く考え続けていたといわれます。

なぜ開国へと考えが変わったのか

岩倉具視が「攘夷」から「開国」へと考えを大きく転換するきっかけとなったのは、時代の変化と実際に起きた事件の影響です。

代表的なのが、**下関戦争(1864年)薩英戦争(1863年)**です。

これらは、外国艦隊と日本の武力衝突を示す事件で、日本側が一方的に敗北しました。

とくに長州藩がイギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊と戦った下関戦争では、その軍事力の差が明らかになりました。

このような事実を通じて、岩倉は「力で外国を追い払うのは非現実的だ」と実感します。

また、幕府の開国政策にも限界を感じるようになり、「ただ追い払うのではなく、学ぶべきことは学び、対等に付き合える国を目指すべきだ」という考えに変化していきました。

これは感情的な裏切りではなく、冷静な判断に基づいた現実的な方針転換だったのです。

欧米列強との力の差に気づいた

岩倉具視が最も強く開国の必要性を実感したのは、やはり岩倉使節団での欧米視察の経験でした。

1871年から1873年にかけて訪れたアメリカやヨーロッパの国々では、鉄道や蒸気機関、議会制度、学校制度、裁判所などが整備され、国としての体制が非常に整っていました。

それに対して日本は、まだ封建制度が色濃く残り、鉄道や郵便も発展途上。

軍事力や経済力、技術力にも大きな開きがあると肌で感じました。

この体験により、「日本が対等な立場で国際社会に加わるには、まずは国そのものを強くしなければならない」と考えるようになります。

特に、教育制度の整備や産業の振興、法整備の必要性を痛感し、帰国後の政策に活かされていきました。

列強との力の差を知った岩倉は、開国=妥協ではなく、開国=学びと進化だと捉え直したのです。

現実を見て政策を変える柔軟さ

岩倉具視の優れた点は、自らの信念にこだわり過ぎず、現実に合わせて柔軟に考え方を変えられたことです。

幕末には強硬な攘夷論者でありながらも、時代の流れと国際情勢を見て、必要に応じて方針を転換しました。

しかもその変化は、ただの“方針転換”ではなく、行動に結びつけられた変化でした。

使節団の経験から、彼は日本の「内政」を充実させることが外交にもつながると理解し、実際に教育制度、産業政策、法制度などの改革を積極的に進めます。

政治家としての信念を持ちながらも、「結果を出すこと」「国を良くすること」を最優先に考えた姿勢が、多くの同僚や部下からの信頼を得た理由でもあります。

このように、理想と現実を両立させる柔軟さと実行力が、岩倉具視の政治家としての大きな魅力でした。

国の未来を見据えた視点

岩倉具視が開国を選んだ背景には、「長期的に国をどうしたいか」というビジョンがありました。

攘夷は一時的な防御策としては意味があるかもしれません。

しかし、それだけでは国の発展は望めないと岩倉は見抜いていました。

彼が目指したのは、「天皇を中心とした統一国家」と「欧米列強と対等に付き合える近代国家」の両立です。

そのためには、自国の力を高め、制度を整え、教育を広げ、国民全体の意識を変えていく必要があると考えたのです。

使節団で得た知見をもとに、帰国後すぐに教育制度改革、産業育成政策、行政の近代化などを推進しました。

このように、岩倉の開国は単なる妥協ではなく、「未来を見据えた積極的な選択」でした。

今の日本の礎を築いたその視点は、現代の私たちにも大いに学ぶべきものがあります。

500円札の顔にもなった岩倉具視の人柄と功績

なぜ紙幣の顔に選ばれた?

岩倉具視が500円紙幣の肖像に選ばれたのは、日本の近代化に果たした多大な貢献が評価されたからです。

1951年に発行された500円紙幣(B号券)、そして1969年のC号券でも引き続き岩倉の肖像が使われました。

当時の大蔵省(現在の財務省)は、紙幣の肖像にふさわしい人物として、国民的認知度と功績、道徳的なイメージを重視していました。

岩倉具視は、江戸時代から明治時代にかけて、明治政府の確立、外交の出発点、国内制度の整備など多くの場面でリーダーシップを発揮しました。

さらに、右大臣という高い地位にあったことや、使節団を率いて世界を視察したという先見性も評価されたのです。

紙幣は日々人々の手に渡るものです。

その顔に選ばれるということは、国として「この人物を誇りに思う」という意思表示でもあります。

岩倉が選ばれたのは、近代日本を築いた功労者として、まさに国民の記憶に残すべき人物だったからにほかなりません。

日本の近代化に貢献した評価

岩倉具視の功績は、「日本の近代国家としての出発点を支えた人物」という点にあります。

王政復古、大政奉還後の政権構築、廃藩置県の実行、岩倉使節団の派遣、教育制度の整備、そして内閣制度の前身となる行政体制の確立まで――。

その一つひとつが、日本を“江戸時代の封建国家”から“近代国家”へと変える重要なステップでした。

特に岩倉使節団では、諸外国の制度をしっかり観察し、それを無理なく日本の形に落とし込む姿勢が光ります。

「西洋をそのまま真似るのではなく、必要なものだけを日本に合う形で取り入れる」――このバランス感覚は、明治政府の政策に大きな影響を与えました。

また、武士や公家といった旧来の身分制度にとらわれず、有能な人材を登用する姿勢も、近代化を加速させた一因です。

そうした幅広い貢献が、後世の人々から「近代国家の父」として尊敬を集める理由となっています。

慎重で冷静な性格だった

岩倉具視は、非常に慎重で冷静な人物だったと伝えられています。

急進的な改革よりも、「現実を見ながら段階的に進めていく」スタイルを好みました。

特に、廃藩置県や華族制度の導入など、多くの利害が絡む改革においても、決して感情的にならず、関係者と丁寧に調整を重ねました。

また、岩倉使節団での交渉でも、条約改正の難しさを理解した上で、無理に押し切るのではなく「一旦持ち帰って内政を整えよう」と判断した点も、冷静さの表れです。

このような慎重さは、時に「消極的」と誤解されることもありましたが、結果として混乱を避け、安定した政策実行を可能にしました。

政治家として、理想に突き進むのではなく、現実とのバランスを重視するその姿勢は、明治政府にとって非常に貴重な存在だったのです。

まさに、危機の時代における「知恵の柱」と呼ぶにふさわしい人物でした。

時代を変えるために戦った生涯

岩倉具視の生涯は、まさに「時代を変える」ために捧げられたものでした。

幕末の混乱期、政治の世界から遠ざけられても、陰で改革の機会をうかがい続けました。

尊王攘夷から倒幕、そして開国・近代化へと、常に変化する情勢の中で、自分の考えを柔軟に変化させつつも、「国のために」という信念は一貫していました。

また、家族や生活を犠牲にしてまでも公務に尽力したことでも知られています。

彼の行動の多くは「私」ではなく「公」に向いていました。

とくに岩倉使節団の旅では、病を抱えながらも長期間の視察をやり遂げた姿に、多くの仲間たちが感動したといいます。

帰国後も、政府内での調整や改革に奔走し、1883年に58歳で亡くなるまで、政治の最前線を歩み続けました。

時代の大きなうねりの中で、信念を貫き通したその姿は、今なお多くの人に勇気と感動を与えています。

歴史的評価と現代の認知度

岩倉具視は、歴史上では非常に高く評価されている人物のひとりです。

特に歴史教科書や大学の日本史講義では、明治維新を支えた中心人物として必ず紹介されます。

しかし、現代においては、「岩倉具視って誰?」という声も少なくありません。

それは、彼があくまで裏方として、実務に徹していたからかもしれません。

目立った武力行使やスローガン運動ではなく、調整と説得を重ねて物事を動かすタイプだったため、派手さには欠けます。

ですが、彼がいなければ明治政府の安定的なスタートはあり得なかったとも言われます。

また、500円紙幣に採用されたことで、一時期は全国民がその顔を知っていた存在でもあります。

最近では再び歴史の見直しが進み、彼の功績が再評価される動きもあります。

「表に出ないが、本当に国を動かした人物」

それが岩倉具視の真の姿かもしれません。

岩倉具視とは何をした人?まとめ

岩倉具視は、日本が江戸時代から明治へと大きく転換する時代に、政治の中心で活躍した人物です。

もともとは公家として朝廷に仕えていましたが、時代の流れに応じて政治家へと転身し、明治政府の設立、中央集権体制の構築、そして外交や教育の近代化まで、あらゆる分野に関与しました。

特に注目すべきは、1871年からの岩倉使節団の派遣。

自ら海外に渡って欧米の制度を学び、日本の未来を見据えた政策を立案・実行したことは、日本の近代化にとって非常に大きな一歩でした。

また、廃藩置県や学制導入など、現代日本に続く制度の多くは、彼の働きによって始まったといっても過言ではありません。

500円札の肖像として採用されたことも、その功績の大きさを物語っています。

表に出すぎることなく、慎重かつ実行力を持って行動した岩倉具視は、日本史のなかでも“実務の天才”とも呼べる存在です。

彼の人生を振り返ることは、日本がどうやって「近代国家」へと進んだかを知るうえで欠かせない、大切な学びになるでしょう。

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