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朝廷と幕府の違いとは?日本史を楽しく学べる簡単解説

「朝廷と幕府の違いって、何?」
そんな素朴な疑問を持ったあなたへ。

この記事では、中学生にも分かるように、朝廷と幕府の違いをやさしく解説します。
歴史の流れに沿って、役割・関係性・現代への影響までしっかりカバー。

授業やテストだけでなく、大人になっても役立つ知識が満載です!

目次

朝廷と幕府の違いを一言で言うと?

「朝廷」と「幕府」はそれぞれどんな役割?

「朝廷」と「幕府」は、どちらも日本の政治に関わる機関ですが、成り立ちも役割もまったく違います。

まず、朝廷は天皇を中心とした古代から続く中央政府のことです。

古くは飛鳥時代や奈良時代に始まり、天皇を頂点にした政治の形が作られました。

この朝廷は法律を定めたり、全国の支配を行ったりしていました。

一方、幕府は武士による軍事政権です。

武士が力を持つようになり、朝廷に代わって全国を治めるために作られたのが「幕府」です。

鎌倉時代に源頼朝が初めて作り、その後も室町幕府、江戸幕府と続きました。

つまり、朝廷は伝統的な国の中心で、幕府は武士が作った現実的な政治の仕組みだったということです。

現代で例えるなら、朝廷は象徴的な存在、幕府は実際に政治を行う組織という感じですね。

このように、両者は時代ごとに役割が変わりつつも、日本の政治の中心にいた存在でした。


そもそも「朝廷」ってなに?

「朝廷(ちょうてい)」とは、天皇を中心にした古代日本の政治機関です。

この言葉の「朝」は「みかど(天皇)」を意味し、「廷」は「宮廷(天皇のいる場所)」を表します。

つまり、朝廷とは「天皇のいる場所で行われる政治」のことです。

飛鳥時代から平安時代にかけては、朝廷が日本全体を治めていました。

天皇のもとに貴族たちが集まり、法律を定め、税を集め、国の方針を決めていたのです。

この時代は貴族の時代でもあり、「藤原氏」などが大きな力を持っていました。

ただし、時代が進むと、地方で力を持つ武士たちが出てきます。

戦いの多い時代になると、戦いに強い武士の方が実力を持つようになります。

そして次第に、朝廷の力は弱まり、天皇は「形式的な存在」として残っていくようになったのです。


じゃあ「幕府」はどういう組織?

「幕府(ばくふ)」とは、武士が実際に政治を行うために作った政府のことです。

もともと「幕府」という言葉は、戦場にある指令本部を意味していました。

それがやがて、武士が政治の中心となる時代になると、武士の政権を「幕府」と呼ぶようになります。

日本で最初の幕府は、源頼朝が鎌倉に開いた「鎌倉幕府」です。

この時、天皇の命令で「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」という役職を得た頼朝が、実際には全国の政治を行うようになりました。

つまり、天皇の名のもとで政治を任されたのが将軍、そしてその将軍が運営したのが幕府です。

幕府は軍事力を持ち、武士によって組織されていたため、戦いにも強く、地方支配にも長けていました。

このように、幕府は天皇とは別の「もう一つの政治の中心」として機能していたのです。


「天皇」と「将軍」の立場の違いは?

天皇と将軍の違いは、大きく分けて「立場」と「役割」にあります。

天皇は、日本の象徴であり、国家の最高位にいる存在です。

一方、将軍は天皇から任命され、実際に政治や軍事を行う人でした。

わかりやすく言えば、天皇は「国の顔」、将軍は「国を動かす手」だったのです。

たとえば、源頼朝が征夷大将軍になったときも、天皇はその地位を与えるだけでした。

実際に土地を治めたり、武士を統率したりするのは将軍の仕事です。

このように、天皇と将軍はそれぞれの立場で国を支える存在でしたが、実際に権力を持っていたのは将軍でした。

時代が進むにつれて、天皇の存在は形式的なものになり、将軍が実質的な支配者として政治を行うようになったのです。


簡単に覚えるための語呂合わせやポイントはある?

朝廷と幕府の違いを覚えるときに、簡単な語呂やポイントを使うと便利です。

たとえば、こう覚えてみましょう。

「朝廷=天皇、幕府=将軍」
「朝廷=伝統、幕府=実権」
「朝廷は上、幕府は実行部隊」

こうした対比で覚えると、テストや会話のときにもすぐに思い出せます。

また、時代の流れと一緒に覚えるのも効果的です。

「奈良・平安=朝廷中心」
「鎌倉〜江戸=幕府中心」
「明治=再び朝廷中心」

さらに、人物で覚えるのもおすすめです。

「天皇=聖徳太子、桓武天皇など」
「将軍=源頼朝、足利尊氏、徳川家康など」

このように、比較しながら覚えると違いがグッと分かりやすくなります。

歴史の流れで見る朝廷と幕府の関係

奈良時代〜平安時代:朝廷の絶対的な時代

奈良時代から平安時代にかけては、朝廷が日本の政治の中心でした。

天皇が直接政治を行い、律令制度という法に基づいた統治が行われていました。

この時代は、貴族たちが力を持ち、特に藤原氏などが朝廷の中で大きな影響力を持っていました。

京都に都が置かれ、文化も栄えたこの時代は「国風文化」と呼ばれる独自の日本文化が発展しました。

ただし、地方では農民の反乱や盗賊の横行が増え、中央からの支配が行き届かなくなってきます。

そのため、地方を守るために武士が誕生しました。

武士はもともと、貴族が自分の土地を守るために雇った存在でしたが、やがて自らが力を持ち始めます。

このようにして、朝廷の支配が弱まっていく中で、新たな政治の形として幕府が生まれる土台ができていくのです。


鎌倉時代:幕府が初めて誕生した背景

1192年、源頼朝が征夷大将軍に任命され、日本で初めての幕府「鎌倉幕府」が誕生します。

それまで政治を行っていたのは朝廷でしたが、武士たちは戦で力をつけ、実際の支配力を持つようになります。

特に平家を倒した源氏は、武士の代表として日本全国の武士をまとめる力を持ちました。

頼朝は天皇から「将軍」の位を受け取ることで、表向きは朝廷の命令として政治を行いました。

しかし実際には、幕府が土地の支配権や裁判権を持ち、事実上の権力者となったのです。

このように、鎌倉時代からは朝廷と幕府が並び立つ「二重構造」の政治体制がスタートします。

表では天皇の存在が残りつつも、実際の政治は幕府が担うという関係が続くのです。


室町時代:朝廷と幕府の力関係はどうなった?

1338年、足利尊氏が征夷大将軍となり、京都に「室町幕府」を開きました。

この時代も、将軍が武士をまとめて政治を行いますが、天皇の存在も引き続き残っています。

特に注目すべきは「南北朝時代」です。

足利尊氏が立てた天皇(北朝)と、京都を追われた後醍醐天皇(南朝)が、それぞれ正統を主張して争ったのです。

これにより、天皇の正当性が大きく揺らぐ事態となりました。

結局、南朝が北朝に合流することで統一されましたが、この事件は天皇の権威にとって大きな痛手でした。

一方で、幕府側も内部抗争が絶えず、将軍の権力が次第に弱まっていきます。

結果として、全国の守護大名が独立したような状態となり、戦国時代へと突入していくのです。


江戸時代:幕府が支配、朝廷は形式だけ?

1603年、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府がスタートします。

この時代、幕府の権力は非常に強く、260年以上にわたって日本全国を統治しました。

一方で、朝廷や天皇は京都に住んでいましたが、政治の実権はまったくありませんでした。

幕府は朝廷の活動を厳しく管理し、天皇や公家たちが政治に関与しないようにしました。

しかし、天皇の地位を完全に無視するわけではありませんでした。

たとえば、将軍になるためには天皇の任命が必要でしたし、儀式などでは天皇の存在が重要視されていました。

つまり、形式上は朝廷が上にありながらも、実際の政治は完全に幕府が握っていたのです。

このような関係が、江戸時代の「建前と本音」の象徴とも言えるでしょう。


明治維新で朝廷が復活?その理由とは

1868年、明治維新によって江戸幕府は崩壊し、日本は再び天皇中心の政治へと戻ります。

これを「王政復古」と呼びます。

幕末の混乱の中で、尊王攘夷(そんのうじょうい)という思想が広まり、「天皇を中心に国を立て直そう」という考えが強まったのです。

薩摩藩や長州藩などが中心となって幕府を倒し、新たな政府を作ります。

これにより、天皇は再び「政治の中心」となりました。

ただし、実際の政治は明治政府(内閣や官僚)によって運営されており、天皇が自ら政治を行うわけではありませんでした。

しかし、形式的には天皇が国のトップである「立憲君主制」の形が整ったのです。

こうして朝廷と幕府の長い対立は終わり、天皇を中心とする新たな時代が始まりました。


天皇と将軍の関係をわかりやすく例えると?

天皇は「お飾り」?それとも実権者?

天皇の存在について、「ただのお飾りだったの?」と疑問に思う人も多いかもしれません。

確かに、幕府の時代には天皇は実際の政治には関わっていませんでした。

しかし、完全に無力だったわけではありません。

たとえば、将軍が任命されるためには天皇の認可が必要でした。

また、国家的な儀式や信仰の中心としての役割も果たしていたのです。

つまり、政治の実権はなくても、精神的・文化的な「象徴」としての意味は非常に大きかったのです。

このように、天皇は単なる飾りではなく、「国家の正統性」を保つための大切な存在だったといえます。

将軍は「大統領」みたいな存在?

将軍を現代の政治体制で例えると、「大統領」のような存在に近いかもしれません。

天皇が象徴的な存在であるのに対し、将軍は実際に国を動かす「実行役」でした。

たとえば、外交・軍事・経済のすべてを将軍が決め、実行していました。

幕府という政府機関のトップとして、法律を作り、武士を統率し、国を運営していたのです。

この点では、現代の内閣総理大臣に近いとも言えるでしょう。

ただし、違いは「血筋」による継承が基本だったことです。

江戸幕府では徳川家の将軍が代々世襲で選ばれ、民主的な選挙ではありませんでした。

そのため、「選ばれる大統領」ではなく、「世襲されるリーダー」という特徴もあります。

いずれにしても、将軍は実権を握り、天皇を支えるというよりは、天皇の名の下で政治を行う、強大な存在だったのです。


例えるなら会社の「会長」と「社長」?

天皇と将軍の関係は、会社に例えると「会長」と「社長」のようなものです。

会長(=天皇)は会社の象徴であり、創業者や最高位の存在として尊重されます。

しかし、日々の経営や運営は社長(=将軍)が行います。

つまり、実務を動かすのは社長だけど、会社の「顔」としては会長が必要という構図です。

このように例えると、両者の役割の違いがとても分かりやすくなります。

また、会長が社長を任命するという点でも共通しています。

天皇が将軍を任命することで、幕府の権威が保たれたのです。

形式上は天皇の権限で動いているように見せながらも、実際には将軍がすべてを指揮する。

こうした構造は、現代の大企業にも見られるような「上下関係」なのです。


天皇と将軍は仲が悪かったの?

実は、天皇と将軍の関係が常に悪かったわけではありません。

もちろん政治的な緊張はありましたが、互いに相手の存在を利用していた側面もあります。

たとえば、将軍は天皇から「征夷大将軍」に任命されることで、正当な支配者であると認められます。

一方、天皇も幕府の保護を受けて京都で安定した生活を送ることができました。

つまり、「持ちつ持たれつ」の関係だったともいえるのです。

ただし、後醍醐天皇のように自ら政治の実権を握ろうとした天皇もいました。

このような場合は幕府と衝突し、戦いになることもありました。

結果として、そうした動きは幕府に押さえ込まれ、天皇の力は再び制限されていくのです。


天皇の命令を将軍は絶対に守ってた?

天皇の命令は「形式的には」重要でしたが、幕府がそれを常に守っていたわけではありません。

特に江戸時代になると、天皇の命令が幕府の方針と違っていても、幕府が優先されました。

たとえば、幕府が鎖国を進めていた時代に、天皇が開国を命じたとしても、それが実行されることはなかったでしょう。

これは、実際の力関係をよく表しています。

天皇は「任命権」を持っていても、「命令権」は持っていなかったと言えるかもしれません。

ただし、幕府も天皇を粗末には扱えませんでした。

正統性を保つためには、天皇からの認可がどうしても必要だったからです。

そのため、幕府は天皇の意向を尊重する「ふり」をしながら、自分たちの都合の良いように政治を進めていったのです。


なぜ朝廷は幕府を止められなかったのか

朝廷には軍事力がなかった?

朝廷が幕府を止められなかった一番の理由は、軍事力を持っていなかったからです。

もともと天皇や貴族たちは、武力ではなく「血筋」や「伝統」で国を治めていました。

しかし、戦乱の時代になると、実際に戦って勝てる力を持つ者が支配者となります。

武士たちは軍隊を持ち、城を築き、戦術や組織を発展させていきました。

一方で、朝廷には兵士も武器もなく、自衛する力がまったくありませんでした。

そのため、いくら天皇が命令しても、それを実行する手段がなかったのです。

この軍事力の差が、朝廷と幕府の力関係を決定づけたと言えるでしょう。


貴族政治と武士政治の限界

朝廷は貴族たちによって運営されていました。

しかし、貴族政治は現実の社会問題に対応できないことが多く、形式的な決まり事ばかりが重視されていました。

それに対して、武士は現場の問題解決に長けており、治安維持や土地の管理にも強かったのです。

特に、武士たちは「恩賞(報酬)」によって団結し、将軍を中心とした強力な指揮系統を築きました。

貴族は血縁と家柄で地位が決まりましたが、武士社会では実力がものを言います。

こうした違いが、政治の現実的な運営を誰が担うかを決定づけました。


幕府が民衆に支持された理由

幕府は民衆からの支持を得ることで、その力をさらに強めていきました。

たとえば、江戸時代の幕府は「五人組」や「年貢制度」を整備し、社会の秩序を守る仕組みを作りました。

また、農民や町人の暮らしを安定させることで、反乱や暴動を防ぎました。

一方、朝廷は民衆と直接関わることがほとんどなかったため、支持を集める力が弱かったのです。

将軍が「民衆に近いリーダー」として機能したことで、幕府の正当性がより強固になりました。


天皇が将軍に任命権を与えた背景

本来、天皇が将軍を任命するというのは不思議に感じるかもしれません。

でもこれは、天皇の存在が「伝統と正統性」の象徴だったからです。

たとえば、源頼朝が征夷大将軍に任命されたとき、天皇の認可を得たことで全国の武士が従いやすくなりました。

つまり、天皇の「ハンコ」があって初めて、幕府が国を動かす正当な理由を持てたのです。

将軍もそれを理解していたため、天皇を排除するのではなく「利用」していたという見方もできます。


実質的な権力を幕府が握るようになった流れ

幕府が実権を握るようになった背景には、時代の流れがあります。

戦乱が多発した時代に、貴族よりも武士の方が「頼りになる」と見られるようになりました。

そして、幕府は軍事だけでなく、裁判・税制・外交など多岐にわたる政治機能を持つようになります。

これにより、形式上の支配者(天皇)と、実質上の支配者(将軍)という関係が確立しました。

朝廷と幕府の違いまとめ

朝廷と幕府の違いは、「伝統の象徴」と「実務の執行者」という役割の違いにあります。

天皇と将軍という2つの権力が日本の歴史を形作ってきたことは、今の政治制度や文化にも深く関係しています。

この二重構造を理解することで、日本史がより立体的に見えるようになるはずです。

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