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後白河天皇ってどんな人?何をした人?簡単にわかる生涯と活躍まとめ

「後白河天皇って何をした人?」

そんな疑問を持ったあなたへ。
教科書では名前を見たけれど、どんな活躍をしたのか、どんな時代を生きたのかよく分からないという人も多いのではないでしょうか?

実は後白河天皇は、平安時代から鎌倉時代へと続く日本史の大転換期において、40年以上にわたって政治の実権を握っていた人物です。
戦乱の中で巧みに立ち回り、時に武士と協力し、時に対立しながらも、常に「生き残る」ことに成功した強かな政治家でした。

この記事では、そんな後白河天皇の人生や功績を、簡単に、そしてわかりやすく解説します。
中学生でも読める内容で、歴史が苦手な人でも安心です。

読み終えたとき、「ただの昔の天皇」ではなく、「今にも通じるリーダー像」としての後白河天皇がきっと見えてくるはずです。

平安時代末期の重要人物としての位置づけ

後白河天皇(ごしらかわてんのう)は、1127年に生まれ、1155年に第77代天皇として即位しました。
その在位はわずか3年と短いものでしたが、退位後に「上皇」そして「法皇」となり、40年近くにわたって日本の政治に深く関わりました。

彼が活躍したのは、平安時代が終わりを迎え、武士の時代である鎌倉時代へと移り変わろうとしていた時期です。
朝廷中心だった政治の仕組みが崩れ始め、地方の武士が台頭し、権力構造が大きく変わっていきました。

そんな激動の時代の中で、後白河は巧みに政治を操り、生き残り続けた稀有な人物でした。
平清盛や源頼朝といった名だたる武将たちとも深く関わりながら、時に協力し、時に対立しつつ、自らの権威を保ちました。

また、「日本一の大天狗」とも呼ばれるなど、そのしたたかさや影響力の強さが同時代の人々に強く印象づけられています。
まさに日本史上でも特に「権謀術数に長けた天皇」として知られる存在です。

天皇即位の経緯と時代背景

後白河天皇が即位したのは、兄の崇徳上皇との間で皇位継承をめぐる争いがあったことが背景にあります。
当時、先帝である近衛天皇が若くして崩御したことで、次の天皇を誰にするかが大問題となりました。

父である鳥羽上皇は、兄の崇徳を強く嫌っていたことから、後白河を新たな天皇に指名します。
こうして、後白河は本来なら有力候補ではなかったにも関わらず、58代天皇として即位しました。

しかしこの決定が、のちに「保元の乱」という武力衝突へと発展します。
この乱では、兄・崇徳上皇と激しく対立し、武士たちを巻き込んだ大きな争いとなりました。

このように、後白河の即位はすでに波乱をはらんだものだったのです。
彼の政治人生は、この継承争いをきっかけに始まり、その後も数々の戦乱と権力闘争を乗り越えていくことになります。

法皇としての長い権力の影響

後白河は1158年に天皇を譲位し、自らは「上皇」となりました。
そしてさらに出家して「法皇」となり、院政という形で実質的な政治の主導権を握り続けます。

彼の院政は約30年以上にも及び、これは歴代の上皇・法皇の中でも最長クラスです。
しかもその間には、平清盛や源頼朝といった新しい勢力との対立や協調があり、日本の政治は大きく動いていきました。

特筆すべきは、後白河が直接軍事力を持たず、言葉と策略だけで政治の舵取りを行っていたことです。
彼はまさに「表に出ない支配者」として、裏から政治を動かしていたのです。

このようなスタイルは、現代で言う「影の実力者」に近く、表舞台には立たないが、全ての決定に関わっているという存在感でした。
後白河の院政は、まさに日本の統治のあり方を大きく変えたターニングポイントだったのです。

幕府成立期との関わり

後白河法皇は、鎌倉幕府の成立にも深く関わっています。
源頼朝が平家を滅ぼしたあと、全国に武士の支配を広げようとした際、後白河はその動きを一部容認しました。

特に1185年、頼朝の求めに応じて「守護・地頭」の設置を認めたことは、武士政権が誕生するきっかけとなりました。
この制度により、頼朝は事実上、地方支配の権限を持つことになり、日本の政治の主導権が貴族から武士へと移っていきます。

後白河は、あくまで朝廷の立場を守りつつ、頼朝の武力と政治力を利用するという、非常に現実的な選択をしました。
彼がこのとき強硬に反対していれば、戦乱が再び起こっていた可能性もあるでしょう。

このように、後白河は日本史における「権力の転換」を穏やかに進める橋渡し役として、大きな貢献を果たしたのです。

「今様」と文化面での功績

後白河法皇は、政治だけでなく文化にも深い関心を持っていました。
特に「今様(いまよう)」という流行歌をこよなく愛し、自らも歌い、また多くの歌を収集していたことが知られています。

彼が編纂した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』は、当時の庶民や僧侶の生活感情を歌にした貴重な資料であり、今でも日本文学や音楽史の中で高く評価されています。

また、仏教への信仰も深く、多くの寺社の保護に尽力しました。
このように、後白河は単なる政治家ではなく、文化と信仰のパトロンとしても大きな役割を果たしました。

戦乱と政争の時代においても、文化を大切にする姿勢は、多くの人々に感銘を与えたと言われています。

目次

保元の乱と平治の乱における後白河天皇の役割

保元の乱とは?原因と結果をわかりやすく

保元の乱(ほうげんのらん)は、1156年に京都で起こった大きな内乱です。
この戦いは、皇位継承や朝廷内部の勢力争いが原因で、貴族や武士たちを巻き込んだ大規模な争いとなりました。

当時、後白河天皇と兄の崇徳上皇との間で、どちらが実権を持つかをめぐって対立が起きていました。
さらに、貴族や武士たちもそれぞれの陣営に分かれて対立します。

源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛(たいらのきよもり)といった武士たちは後白河側につき、反対に源為義や源為朝は崇徳側につきました。
戦いは短期間で決着がつき、後白河側が勝利を収めます。

この結果、崇徳上皇は讃岐(現在の香川県)に流され、後白河天皇の地位は一層強固なものとなりました。
また、この乱をきっかけに、武士たちが政治の中で大きな役割を果たすようになっていきます。

保元の乱は、日本の歴史において武士の時代の幕開けとも言える重要な事件でした。

平治の乱での勝者と敗者

平治の乱(へいじのらん)は、保元の乱から3年後の1159年に発生したもう一つの大きな内乱です。
今度は後白河法皇の側近たちの内部争いが原因でした。

後白河の信頼を受けていた藤原信西(ふじわらのしんぜい)と、同じく重臣の藤原信頼(のぶより)との間で対立が深まり、最終的に武力衝突に発展します。

藤原信頼と源義朝は、後白河を一時的に幽閉し、政権を掌握しようとしました。
しかし、都を離れていた平清盛が戻って反撃を開始し、信頼と義朝の軍を撃破します。

その結果、藤原信頼は処刑され、源義朝は敗走中に暗殺されました。
勝利した清盛は、その後一気に権力を拡大し、平家政権を築き上げていきます。

後白河はこの乱でも生き残り、政界に復帰しました。
こうして、再び自らの政治基盤を築くことに成功したのです。

後白河のしたたかな政治判断

保元・平治という2つの戦乱で、後白河は常に「勝者側」に立ち、最終的には自らの地位を守り抜きました。
それは、単なる運ではなく、彼の優れた政治判断によるものでした。

たとえば、後白河は戦局の流れを見ながら、必要に応じて支援者を変えたり、あるいは敵とも一時的に手を組んだりする柔軟な対応を取っていました。
こうした判断力と行動力が、彼を40年以上も権力の座にとどまらせた大きな要因です。

また、情に流されず、政治的な利益を優先する冷静さも特徴でした。
このような姿勢は一部で批判されることもありましたが、混乱の時代を生き抜くには必要な戦略だったとも言えるでしょう。

後白河は、まさに「その場の勝者になること」ではなく、「最終的に生き残ること」に全力を注いだ人物だったのです。

武士台頭の転機となった内乱

保元の乱と平治の乱は、朝廷の内部争いがきっかけでしたが、そこに武士たちが大きく関わったことが、歴史的に非常に重要な点です。

それまでの政治は、貴族たちが主導していました。
しかし、この二つの戦いでは、源氏や平氏といった武士たちが実際に戦い、結果を左右する存在となりました。

後白河は、この流れを敏感に感じ取り、武士たちを単なる軍事力としてではなく、政治のパートナーとして扱うようになります。
これが後に、鎌倉幕府の誕生へとつながる流れを作り出すのです。

つまり、保元・平治の乱は、武士の時代が本格的に始まる「起点」であり、後白河はその中で新しい政治の形を模索した存在でもありました。

内乱後に築いた院政体制

2つの内乱の後、後白河はより強固な院政体制を築きます。
自らは表舞台から一歩引きつつ、実際の政治決定をすべて掌握するという形です。

これは「院政(いんせい)」と呼ばれるもので、天皇が即位しても、実際には上皇や法皇が政治を動かす仕組みでした。

後白河はこの制度を巧みに利用し、政権交代が起こっても自らの権威を保ち続けました。
また、彼は新たな天皇を自分の意向で選び、平清盛や源頼朝といった武士たちの動きも調整しながら、安定した政権運営を目指しました。

このように、院政は単なる形式ではなく、後白河のしたたかな戦略の一環として、時代の中で重要な意味を持っていたのです。

平清盛との対立と協調

清盛と後白河:政敵であり盟友?

平清盛(たいらのきよもり)は、平治の乱で勝利したあと、武士として初めて政権の中心に立った人物です。
そして、後白河法皇と清盛は、その後の30年近くにわたり、協力と対立を繰り返す関係を築いていきます。

もともと清盛は、後白河の院政を支える有力な武士でした。
しかし、次第に清盛の権力が強まり、後白河の意向を無視するようになります。

清盛は娘の徳子を天皇の中宮とし、その子である安徳天皇を即位させました。
こうして平家は皇室と血縁関係を持ち、政治の中枢を完全に掌握するようになります。

これに対して後白河は、朝廷の権威が平家に奪われることを恐れ、平家の勢力を抑えようと動きます。
このように、両者は表向きは協力しているように見えても、裏では常に主導権を争うライバルだったのです。

まさに「政敵であり盟友」という、複雑で緊張感のある関係が続いていました。

平家政権の中での後白河の動き

平清盛が絶大な権力を持つようになっても、後白河法皇は政治の中心から退きませんでした。
むしろ、清盛に対抗するために、さまざまな政治的な動きを続けていました。

たとえば、後白河は清盛と対立する公家や武士を密かに支援し、平家に対する反発の火種を育てていきます。
また、別の皇子を天皇に立てようと画策するなど、清盛の皇統支配に対して対抗手段を講じていました。

しかし、これらの行動は清盛に察知され、逆に後白河自身が幽閉されるなど、厳しい立場に追い込まれることもありました。
それでも彼は政治の表舞台に戻るチャンスを常にうかがい、時には妥協しながらも決して諦めることはありませんでした。

平家政権の中でも、後白河はあくまで朝廷の正統性を守る存在として、独自の地位を保ち続けていたのです。

「鹿ヶ谷の陰謀」とは何か?

1177年に発覚した「鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)」は、後白河と平清盛の関係が一気に悪化するきっかけとなった事件です。

この陰謀は、後白河の近臣である藤原成親(ふじわらのなりちか)や僧侶の俊寛(しゅんかん)らが、平家打倒を計画したとされるものです。
密談の場が京都の鹿ヶ谷という場所だったため、この名前がつきました。

陰謀が露見すると、清盛は関係者を厳しく処罰します。
藤原成親は流罪、俊寛は絶海の孤島・鬼界ヶ島(きかいがしま)に送られました。
しかも俊寛は、最後まで赦されることなく島に一人取り残されたことで有名です。

後白河自身の関与については明確な証拠はありませんが、清盛はこの事件を口実に、法皇に対する圧力を強めていきました。
この事件は、両者の信頼関係が完全に崩れた象徴的な出来事とされています。

流罪と復権を繰り返した政治劇

後白河は、平清盛によって二度も幽閉されるという屈辱を受けています。
特に1179年の「治承三年の政変」では、清盛が軍事力を背景に朝廷を掌握し、後白河法皇を完全に排除しました。

このとき、後白河は約1年間、政治の場から姿を消すことになります。
しかし、清盛が1181年に病死すると、再び後白河は政界に復帰します。

そして、平家に敵対していた源氏との連携を強め、平家打倒の流れをつくっていきました。
まさに「復権の達人」とも言える粘り強さを持っていたのです。

後白河は、自らの権力を守るためには一時的な敗北も受け入れ、次の機会を待つという現実的な姿勢を徹底していました。
このような政治手法は、現代に通じる「危機管理能力」としても高く評価されています。

最終的に勝ったのは誰?

平清盛は一時は日本の頂点に立ちましたが、1181年に死去し、その後の平家は急速に弱体化していきます。
一方、後白河法皇はその死後も生き残り、源氏との連携を深め、最終的には武士政権の成立を見届けることになります。

結果的に、「最後に勝った」のは後白河だったと言えるでしょう。
彼は平家にも源氏にも従わず、どちらとも距離を保ちつつ、自らの立場を守り抜いたのです。

平家が滅び、頼朝が幕府を開いたあとも、後白河はその動きに適応し、最期まで影響力を持ち続けました。
政治家としての勝利とは、単に相手を倒すことではなく、どの時代でも生き抜くことにある――そう教えてくれる人物でした。

源平合戦と鎌倉幕府との関係

源頼朝と後白河の関係は良好だった?

後白河法皇と源頼朝(みなもとのよりとも)の関係は、複雑で緊張感のあるものでした。
お互いに協力し合う場面もあれば、牽制し合う場面もありました。

源頼朝は、1180年に平家打倒のために挙兵します。
そのとき、朝廷に反旗を翻す行動と見られたため、後白河は頼朝の動きを警戒しました。

当初、頼朝は後白河から討伐命令を受けましたが、それを無視して関東に独自の政権を築き上げます。
しかし、戦況が頼朝に有利になるにつれて、後白河は彼を無視できなくなりました。

後白河は、頼朝の政治力と軍事力を認めざるを得ず、次第に妥協へと向かいます。
結果的に、頼朝の地位を公式に認め、朝廷と幕府の協調関係が成立する形となりました。

表面的には和解が成立したものの、両者の間には最後まで緊張感が漂っていたのです。

後白河が果たした調整役としての役割

源平合戦の最中、後白河法皇は武士たちの争いに巻き込まれながらも、重要な調整役として動きました。
源氏の中でも義仲(よしなか)や義経(よしつね)など、複数の武将が権力争いを繰り広げる中で、後白河は巧みにバランスを取ります。

特に1183年、源義仲が京に入って後白河を擁立した際には、一時的に協力しますが、義仲が横暴な態度を取ると、すぐに義経を呼び寄せて排除させました。

また、義経と頼朝の仲が悪化したときも、後白河は義経をかばう行動を取りました。
このように、時の有力者に傾倒しすぎず、自分にとって最も有利な関係を選び続けたのが後白河です。

彼の調整力によって、朝廷と武士の関係は一時的な対立に陥ることなく、新たな政治体制へと移行することができました。
まさに「陰の交渉人」として、日本史において欠かせない存在でした。

幕府成立と院政の終焉

1185年、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、日本の実権は源頼朝に集中していきます。
後白河は、頼朝の求めに応じて「守護・地頭」の設置を認め、地方の支配を任せました。

これは、日本全国の土地と人民を武士が管理できる制度であり、のちの鎌倉幕府の土台となります。
これによって、朝廷が全国の支配を行う時代は終わり、武士による地方支配が本格的に始まりました。

さらに、後白河が亡くなった1192年には、源頼朝が「征夷大将軍」に任命されます。
これが、正式な鎌倉幕府の成立とされています。

後白河の死は、院政の終焉を意味し、日本は完全に武士の時代へと移行しました。
つまり、後白河は「最後の貴族政権の支配者」であり、彼の死と共に貴族中心の政治も終わりを迎えたのです。

鎌倉時代につながる権力構造の変化

後白河法皇が生きた時代は、日本の政治の仕組みが大きく変わった時期でした。
それまでの天皇中心、貴族中心の「公家政権」は、源頼朝をはじめとする武士による「武家政権」へと切り替わっていきます。

このような大きな転換期に、後白河は貴族としての立場を守りながら、武士の台頭に柔軟に対応しました。
対立を避け、必要に応じて妥協し、時には主導権を渡すこともありました。

その結果、大きな混乱を招くことなく、政治の主役がスムーズに武士へと移ることができました。

また、彼が認めた「守護・地頭制度」は、のちの幕府制度の基本となり、日本の政治の形を何百年にもわたって決定づけるものとなりました。
この構造の変化に対応しつつ、自らの立場を保ち続けた後白河の柔軟さは、現代でも評価されています。

最後まで政治の表舞台にいた法皇

後白河法皇は、1127年に生まれ、1192年に没するまで、政治の中心に立ち続けました。
天皇としてはわずか3年の在位でしたが、その後の40年近くにわたり、法皇として日本の権力の中枢にいました。

彼は自ら軍を持たず、あくまで朝廷の威信と交渉力を武器に、多くの強力な武士たちと対等に渡り合いました。

平清盛にも源頼朝にも屈することなく、あくまで自らの信じる秩序を守るために行動した姿は、多くの後世の政治家にも影響を与えています。

そして、彼が築いた院政という政治の形、また武士と貴族が共存するという政治構造は、後の日本社会に大きな影響を残しました。

その意味で、後白河法皇は「ただの元天皇」ではなく、「日本の統治の在り方を根本から変えた人物」として、歴史に名を刻んでいます。

後白河天皇の死とその後の評価

1192年、後白河法皇の死

後白河法皇は、1192年に66歳(数え年)でその生涯を終えました。
この年は、奇しくも源頼朝が「征夷大将軍」に任命され、正式に鎌倉幕府が成立した年でもあります。

つまり、後白河の死は、平安時代と貴族政治の終わり、そして武士による新しい時代の幕開けを象徴する出来事でもありました。

天皇としての在位はわずか3年でしたが、法皇として40年近く日本の政治に関わったその影響力は計り知れません。
彼の死によって、朝廷の実質的な主導権は失われ、政治の主役は完全に武士へと移っていきました。

後白河は、混乱の時代を生き抜いた「最後の貴族政治家」であり、日本の歴史における大きな転換点を見届けた人物でした。

権力の中心で生きた稀有な存在

後白河法皇は、生涯を通じて「権力の中心」に居続けた、きわめて特異な存在でした。
天皇として短期間で退位した後も、上皇・法皇として長期間政治の舵を取り続けました。

しかも彼は、自分自身では軍を持たず、周囲の武士や貴族、僧侶たちを操ることで影響力を保っていました。

たとえば、平清盛の平家政権、源頼朝の鎌倉幕府といった新しい権力者たちと、時に協調し、時に対立しながら、自らの権威を守り抜きました。

このように、後白河は単なる「権力者」ではなく、時代の変化に合わせて立ち位置を変えながらも、常に生き残り続けた戦略家だったのです。
こうした人物は、日本史の中でも非常に珍しく、まさに「稀有な存在」と言えるでしょう。

賛否両論ある評価の理由

後白河法皇に対する評価は、歴史上でも大きく分かれています。
一部の学者や歴史ファンからは「天才的な政治家」として高く評価されている一方で、「ずる賢く信頼できない人物」といった否定的な意見もあります。

たしかに、彼は平清盛や源義仲、源義経などと協力したかと思えば、次の瞬間には裏切るような行動を取ることもありました。
これは、信念に基づいた一貫した行動というよりも、常に「その場での最善」を選び続けた結果と言えます。

そのため、「信念のない日和見主義」と見られることもあれば、「現実主義の鏡」として称賛されることもあります。

しかし、いずれにせよ彼がいたからこそ、大きな内乱や混乱が連鎖せず、新しい政治体制が築かれていったという点は、多くの専門家が認めるところです。

今に残る文化的・政治的影響

後白河法皇が現代に残したものは、政治だけではありません。
彼は文化面でも多くの足跡を残しています。

なかでも有名なのが、「今様(いまよう)」という流行歌を愛し、自らも歌い、その歌を集めた『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編纂したことです。
この作品は、日本の中世庶民文化を知る貴重な資料であり、現在でも文学や音楽の分野で高く評価されています。

また、後白河は仏教信仰にも深く関わり、多くの寺院や宗派を保護しました。
こうした支援が、鎌倉仏教や中世宗教文化の発展へとつながっていきます。

政治と文化を両立させた後白河法皇の姿は、まさに「多面性のある人物」そのものでした。
彼がいたからこそ、乱世の中にも文化が根付き、次の時代へと継承されていったのです。

後白河法皇から学べること

後白河法皇の生涯から、私たちが学べることはたくさんあります。
とくに「変化の時代をどう生き抜くか」という視点は、現代社会にも通じるものがあります。

後白河は、権力者としての地位を失いそうになっても、決してあきらめず、何度も復帰を果たしました。
敵と味方を見極め、必要ならば過去のしがらみを捨ててでも前に進むその姿勢は、現代のビジネスや政治にも応用できる柔軟な戦略と言えるでしょう。

また、彼は文化を愛し、宗教にも理解があり、政治以外の分野にも力を注いだ「バランス感覚」のある人物でした。

変化の激しい時代にこそ、固定観念に縛られず、柔軟な思考と行動力が必要です。
後白河法皇のように、自分の立場を守りながらも、時代に合わせて変化する力。
それこそが、これからの時代を生き抜くヒントとなるのではないでしょうか。

後白河天皇とは何をした人?まとめ

後白河天皇は、平安時代末期から鎌倉時代初期という激動の時代を生き抜いた、稀有な政治家です。
彼はわずか3年の在位ののち、40年近くにわたり法皇として政治の実権を握り続けました。

崇徳上皇との対立による保元の乱、藤原信頼らとの平治の乱、平清盛との協調と対立、そして源頼朝との緊張関係。
いずれの場面でも後白河は「勝者」ではなく「生き残る者」として、柔軟に動き、権威を保ちました。

文化面でも「今様」や『梁塵秘抄』など、後世に影響を与える業績を多く残し、政治・文化・宗教を横断して活躍した人物です。
彼の死は、貴族政治の終わりと、武士による新しい時代の始まりを告げるものでした。

後白河天皇の人生は、まさに「しなやかに強く生き抜く」ことの大切さを教えてくれます。
混乱の時代を生きる現代の私たちにとっても、彼の姿勢から学べることは少なくありません。

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