MENU

徳川慶喜って何した人?簡単にわかる最後の将軍のすごさ

「徳川慶喜って何をした人?」

教科書では「江戸幕府最後の将軍」として名前を見かけますが、実際にどんな人物だったのかは、意外と知られていません。この記事では、徳川慶喜の人生とその功績を、できるだけ簡単に、わかりやすく解説します。

なぜ将軍になったの?

どうして政権を返したの?

その後どうなったの?

そんな疑問に答えながら、歴史の転換期に登場した「静かなる改革者」徳川慶喜の魅力に迫ります。

目次

江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜とは?

徳川慶喜の基本プロフィール

徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸時代の最後の将軍で、第15代将軍として知られています。生まれは1837年、水戸藩の名門・徳川斉昭(なりあき)の七男として誕生しました。母は側室であったため、幼い頃は水戸ではなく、一橋家という別の徳川の分家に養子に出されます。これが後に、将軍に就任するきっかけになります。

彼は幼少期から聡明(そうめい)で、文武両道の教育を受けて育ちました。特に政治や歴史に関心を持ち、若い頃から「時代の流れ」を読む力があったと言われています。やがて幕府の将軍家に後継者がいなくなったことから、優秀な血筋と能力が買われ、一橋家の当主として政治の表舞台に出てきました。

つまり徳川慶喜は、「家柄」「能力」「タイミング」の3つがそろって、激動の時代のリーダーになった人物なのです。

なぜ15代将軍になったのか?

徳川慶喜が将軍になったのは1866年。第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が若くして亡くなり、後継者問題が起こったときのことです。当時の幕府は、内外からの圧力にさらされており、外国との開国問題や国内の尊王攘夷運動(そんのうじょうい)が激しさを増していました。

そのような混乱の中、幕府をなんとか立て直すためには、「実力のある人」が必要とされていました。そこで注目されたのが、すでに一橋家で政治的な経験を積んでいた徳川慶喜です。

彼は、政治改革を求める人々の信頼もあり、特に朝廷(天皇)からも期待されていました。実は、慶喜は将軍になる前から、幕府の中で「将軍になってほしい人物」として名前が挙がっていたほどです。

最終的に、1866年に15代将軍となり、幕府の「ラスト将軍」として歴史に名を刻むことになります。

「将軍」という役職の意味

「将軍(しょうぐん)」というのは、正式には「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」といい、もともとは天皇から任命される軍の最高司令官でした。江戸時代では、将軍は事実上の日本の支配者であり、政治のトップでもありました。

つまり、江戸幕府の将軍とは、「国のリーダー」のような存在です。ただし、将軍は「天皇の代理」であって、あくまで形式的には天皇が日本の最高権力者です。

この構造が、後で大きな変化を生むことになります。というのも、時代が明治に変わるとき、慶喜は「天皇に政治を返す」という決断をするのです。

幕末の政治情勢と慶喜の登場

徳川慶喜が政治の中心に登場した幕末は、日本史の中でも最も激動の時期です。黒船来航(1853年)から始まり、日本は開国を迫られ、これまでの「鎖国の平和」が大きく揺らぎました。

一方で、国内では「天皇を中心にするべきだ!」という尊王思想が高まり、幕府の権威は急速に低下していきます。こうした中、若くて頭の切れる慶喜が注目され、「この人なら時代を変えられる」と期待されたのです。

天皇との関係が重要になった時代背景

それまでの江戸時代では、天皇は政治にあまり関わっていませんでしたが、幕末になると「朝廷の力を取り戻そう」という動きが強まってきました。

その中で、徳川慶喜は「天皇と対立するのではなく、協力して時代を変える」ことを選びます。これは、それまでの幕府の考え方からするととても革新的(かくしんてき)なものでした。

結果的に、慶喜は「武力で戦う将軍」ではなく、「平和的に時代をつなぐ橋渡し」をした将軍として、歴史に名を残すことになります。

大政奉還ってなに?慶喜が行った「平和的な政権交代」

「大政奉還」とはどういう意味?

「大政奉還(たいせいほうかん)」とは、簡単に言えば「国の政治の権利を天皇に返すこと」です。1867年、徳川慶喜は自ら将軍の地位を辞め、天皇に対して「今後の政治は朝廷が行ってください」と申し出ました。

これは、約260年間続いた江戸幕府の終わりを意味します。でも大切なのは、そのやり方です。戦争や暴力ではなく、「話し合い」と「手続き」によって、政権を返したのです。これは世界的に見てもとても珍しい「平和的な政権交代」でした。

どうして慶喜は政権を返したのか?

慶喜が大政奉還を決断した理由は、大きく2つあります。

1つは、時代の流れです。外国との関係が進み、日本も近代化をしなければならなくなってきていました。旧来の幕府制度ではそれに対応できなくなっていたのです。

もう1つは、内戦を避けたかったからです。当時、薩摩藩や長州藩といった反幕府の勢力が力をつけてきており、「幕府を倒せ!」という声が高まっていました。ここで無理に権力を維持すれば、全国を巻き込んだ戦争になっていた可能性があります。

慶喜は、それを避けるため、自ら政権を返すという「一歩引いた」決断をしたのです。

江戸幕府を戦わずに終わらせた理由

歴代の将軍の中で、政権を返すという決断をしたのは慶喜だけです。それほど、彼の判断は異例でした。

この決断は、戦争を防ぎ、できるだけ穏やかに時代を変えるためのものでした。実際、徳川慶喜が無理に抵抗しなかったことで、江戸の町は戦火に巻き込まれることなく、多くの人の命が救われたのです。

幕府を作った徳川家康から数えて約260年。最後の将軍である慶喜が、その幕を静かに下ろしたのです。

戊辰戦争と徳川慶喜の決断

大政奉還のあとに起きた「戊辰戦争」

徳川慶喜が政権を天皇に返したあと、すべてが平和に進んだわけではありませんでした。実はその直後、1868年に「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」という内戦が始まります。この戦争は、旧幕府側と新政府(薩摩・長州など)側が日本の支配権をめぐって争った戦いです。

なぜ戦争が起きたのかというと、慶喜が政権を返しても、実際にはまだ政治の実権を握っていたからです。新政府側は、「慶喜が政権を返したのは見せかけだ」「実際にはまだ力を持っている」と疑っていました。

こうして、慶喜の行動に反発した新政府軍が兵を挙げ、戦争が始まりました。

なぜ戦争が起きたのか?

新政府軍の目的は、徳川家を完全に政治の舞台から排除することでした。「新しい日本」を作るためには、幕府の影響力をゼロにする必要があると考えたのです。

一方、徳川側は「戦うことで徳川の立場を守ろう」とする人たちもいました。これが、全国を巻き込む大きな内戦に発展していきます。

でもここで重要なのは、徳川慶喜自身は「全面戦争」を望んでいなかったということです。

慶喜は戦いをどう考えた?

徳川慶喜は、戦争をできるだけ避けようとしていました。彼は、最初の戦いである「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れた後、すぐに江戸に戻り、戦線を拡大させないようにしました。

また、慶喜はその後、上野の寛永寺にこもって「謹慎(きんしん)」という形をとり、自分はもう政治には関わらないと表明しました。この行動は、「自分が表に出ないことで、これ以上戦いが大きくならないようにする」ためだったのです。

つまり、慶喜は自分のプライドや立場よりも、多くの人々の命を守ることを優先したのです。

上野の寛永寺からの出家と謹慎

寛永寺は江戸の上野にあるお寺で、徳川将軍家と関係の深い場所です。慶喜はここに入り、出家して仏門に入りました。出家とは、政治や世俗から身を引き、仏の道に入ることを意味します。

このとき慶喜はまだ30歳くらいの若さでした。それでも彼は、自らの将来よりも、日本の平和と民衆の安全を選んだのです。この行動は、敵味方を問わず多くの人に「高潔な決断」として評価されました。

徳川家の存続のために取った行動

慶喜の出家と謹慎は、「徳川家を完全に潰されないようにするため」の知恵でもありました。もし彼が抵抗し続けていたら、新政府は徳川家を根絶やしにする可能性もありました。

しかし、慶喜が身を引いたことで、新政府も徳川家をある程度許し、旧幕府の財産や土地の一部は残されました。そして、徳川家は静岡藩として新しい形で存続することになります。

このように、慶喜の行動は「戦わずして徳川家を守る」ことにつながったのです。

明治時代の徳川慶喜の意外な後半生

戦後、徳川慶喜はどうなった?

戊辰戦争が終わったあと、徳川慶喜はしばらくの間、政治や公の場に出てきませんでした。江戸幕府の最後の将軍である彼にとって、新政府の中で活動することは難しかったのです。

その後、明治政府の許しを得て、静岡に移り住みました。ここで慶喜は、まるで「普通の引退した人」のような生活を始めます。

彼はもともと趣味が多く、政治の世界を離れたあとも、写真や絵、乗馬などを楽しみながら過ごしました。こうした生活は、明治時代の「元将軍」の新しい生き方として、多くの人の関心を集めました。

明治政府との関係と生活

明治政府は、当初こそ徳川家に厳しい態度を取りましたが、慶喜が政治に関わらず穏やかに過ごしていたため、次第に関係はやわらぎました。

慶喜は明治天皇にも謁見(えっけん)を許され、名誉をある程度回復することができました。そして1888年には「公爵(こうしゃく)」という爵位も与えられ、旧大名としての格式が認められました。

つまり、慶喜は敵であった新政府からも「立派な人物」として評価されるようになっていったのです。

自転車やカメラが好きな趣味人だった

意外かもしれませんが、徳川慶喜はとても新しいもの好きでした。特に有名なのが、「カメラ」と「自転車」です。

明治時代に西洋文化が日本に入ってきたとき、彼は積極的にそれらを取り入れました。特に写真は、慶喜が自分でカメラを持ち、自ら撮影を楽しんでいたことが記録に残っています。

また、自転車にも乗っていたと言われており、静岡の町を自転車で走る姿が市民に知られていたとか。そんな趣味人としての一面は、多くの人に親しまれました。

政治から完全に引いた理由

慶喜が政治から距離を置いた理由は、「自分が関われば、また争いになる」と考えたからです。自分が表に出ることで、昔の幕府を復活させようとする動きが起きるかもしれない。そうすれば再び国が分裂してしまう――。

だからこそ彼は、あえて表に出ず、静かに生きることを選びました。この姿勢は、「時代を読む力」と「引き際の美学」を感じさせます。

最後まで徳川の「名」を守った生き方

慶喜は1913年に亡くなるまで、徳川家の名を大切にしながらも、時代の変化を受け入れて生き抜きました。彼は、「将軍としての栄光」よりも、「徳川という家を未来に残すこと」を優先したのです。

まさに「歴史の転換点をつないだ橋渡し役」として、彼の生き方は高く評価されています。

徳川慶喜から学べる「時代の変わり目」のリーダー像

戦わずに時代を変える力とは?

徳川慶喜の最大の特徴は、「戦わずに時代を変えた」点です。普通、歴史を変えるには戦争や革命など大きな衝突が伴いますが、慶喜はそれを避け、平和的に江戸幕府を終わらせました。

これは「弱さ」ではなく「賢さ」です。戦えば多くの命が失われ、国が混乱します。それよりも、時代の流れを読み、自ら身を引くことで未来を守るという判断は、今のリーダーにも通じる「高い判断力」だと言えるでしょう。

若くして大きな責任を負った覚悟

慶喜が将軍に就任したのは30歳前後。まだ若く、普通の人なら不安を感じる年齢です。しかし彼は、激動の幕末で日本全体の運命を背負い、大きな決断を下しました。

若さゆえの柔軟な思考と、育ってきた家系で学んだ責任感がうまく合わさっていたのでしょう。若いからこそできた決断も、彼の魅力の一つです。

勝つことより「守ること」を選んだ価値観

多くのリーダーは「勝ちたい」と思いがちですが、慶喜は「守りたい」と考えました。守ったのは、自分の地位や名誉ではなく、人々の命や平和、そして徳川家の未来です。

この「何を守るか」という価値観の選び方こそ、慶喜が他の将軍とは一線を画す理由です。時代が変わるとき、大切なのは「誰のために決断を下すか」なのです。

今のリーダーにも通じる判断力

現代社会においても、企業や組織のリーダーに求められるのは、「勝ち続ける力」よりも「時代の変化に対応する力」です。徳川慶喜のように、自分の立場に固執せず、大きな視野で判断できる人こそが、真のリーダーです。

彼のように、未来のために今をどう動かすかを考える姿勢は、現代にも十分通用するリーダーシップの在り方といえるでしょう。

徳川慶喜をどう評価するか?

歴史上、徳川慶喜の評価は分かれることもあります。「政権を手放しただけでは?」という声もありますが、今の視点から見ると、彼の判断は非常に合理的で平和的でした。

戦乱を避けて政権を返し、民を守り、家を守った。その功績は、静かながらもとても大きなものでした。

「戦わずして勝つ」――まさに孫子の兵法を体現したようなリーダー像です。

徳川慶喜は何した人?まとめ

徳川慶喜は、江戸幕府最後の将軍として激動の時代を生き抜いた人物でした。彼は戦わずして政権を返上する「大政奉還」を行い、日本を大きな内戦に巻き込まずに新時代・明治への橋渡しを果たしました。

戊辰戦争では抵抗を最小限に抑え、命を守り、出家という形で政治から引退。その後は静岡で平和な生活を送り、近代文化にも触れながら「徳川家の再出発」を静かに見守りました。

彼の生き方は、「時代の終わりにどう振る舞うか」「変化の中でどう身を引くか」という難しい問いに、1つの答えを与えてくれます。
そして今、私たちがリーダーとして、また1人の人間として何かを決断するとき、徳川慶喜の生き方はきっとヒントをくれるでしょう。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次