「徳川吉宗って、何をした人?」
そんな疑問をもった方に向けて、この記事では“簡単に”“わかりやすく”徳川吉宗の功績を紹介します。
暴れん坊将軍として有名ですが、実は経済、教育、災害対策まで幅広く活躍したスゴい将軍だったのです。
歴史が苦手な人でも、読んだあとに「へぇ~!」と言いたくなるような情報をギュッと詰め込みました。
この記事で、徳川吉宗のことがまるっとわかります!
江戸時代の将軍「徳川吉宗」とは?
八代将軍に就任した理由
徳川吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府の八代将軍です。
彼が将軍になったのは、先代の徳川家継がわずか7歳で亡くなり、後継者がいなかったためです。
吉宗は、徳川家の支流である紀州藩の出身でした。
紀州藩は、徳川御三家のひとつで、将軍になる資格をもっていました。
江戸幕府は、当時かなり財政的に困っており、民衆の暮らしも苦しい時代でした。
そのため、政治的に力があり、実行力のある人物が必要とされていました。
吉宗は紀州藩主として優れた統治を行っていたことから、幕府に呼ばれ、将軍に就任しました。
こうして1716年、彼は八代将軍となり、「享保の改革(きょうほうのかいかく)」という大きな政策を行っていきます。
なぜ「暴れん坊将軍」と呼ばれるのか
「暴れん坊将軍」は、実はテレビドラマのタイトルです。
徳川吉宗が主人公として登場し、町で悪者を成敗する姿が描かれています。
このドラマの影響で、多くの人が「吉宗=暴れん坊」というイメージをもつようになりました。
実際の吉宗が刀をふるって町を走り回ったわけではありませんが、彼が庶民の声に耳を傾けたことは事実です。
将軍でありながら市中の問題にも目を向け、政治を改革した姿が、「庶民思いの強い将軍」として、人気の理由になりました。
吉宗の人気の理由
吉宗は、身分にとらわれず、実力を重視する政治を行いました。
これが武士だけでなく、町人や農民にも受け入れられました。
また、倹約(けんやく)を重視し、ぜいたくを嫌ったため、質素で誠実なイメージがあります。
自らも質素な生活を実践し、「清い政治家」という印象を残しました。
薬の価格を安くしたり、病院を支援したりするなど、庶民の暮らしを良くしようと努力した点も高く評価されています。
こうした姿勢が後の世代まで語り継がれ、今でも歴史の授業で「名君」として紹介される理由となっています。
当時の社会の背景
吉宗が将軍になったころの日本は、たび重なる災害や飢饉で、民衆の生活がとても苦しい時代でした。
また、幕府の財政も悪化しており、無駄遣いが多く、収入が減っていたのです。
そのため、政治や制度を大きく見直す必要がありました。
吉宗は、このような社会の課題を一つずつ解決しようと行動しました。
彼の政治改革は、「武士のため」だけではなく、「民衆のため」でもあったのが、特徴的です。
吉宗の人物像と性格
吉宗は、まじめで実直な性格でした。
権力をふるうよりも、現実の問題に目を向け、解決しようとする姿勢をもっていました。
また、頭がよく、学問にも熱心で、知識に基づいた政治を行いました。
民衆からの声に耳を傾けるために、「目安箱」を設置したのも彼のアイデアです。
このように、誠実で努力家な将軍であったことが、今でも多くの人に尊敬される理由となっています。
徳川吉宗が行った「享保の改革」とは?
享保の改革の目的
享保の改革は、江戸幕府の財政再建と政治の立て直しを目的に行われた大改革です。
吉宗は、幕府の借金と支出の多さを問題視しており、無駄を省いて収入を増やす政策に着手しました。
この改革の特徴は、民衆の暮らしにも目を向けたことです。
ただの「節約」ではなく、「どうすれば日本が安定するか」を考えた取り組みでした。
農民・商人・武士など、すべての階層に対して公平な改革を行おうとした姿勢は、多くの支持を集めました。
年貢を増やす政策
吉宗は、幕府の収入を増やすために、年貢(ねんぐ=お米などの税)を見直しました。
年貢率を上げることで、農村からの収入を増やそうとしたのです。
ただし、むやみに税を上げたわけではなく、農地の生産量に見合った取り立てを行いました。
一部では農民の反発もありましたが、吉宗は検地を行い、なるべく公平にしようと努力しました。
また、新田開発(しんでんかいはつ)をすすめて農地を広げ、全体の生産量を増やすことで、収入を確保しました。
目安箱の設置
吉宗の有名な政策のひとつが「目安箱(めやすばこ)」です。
これは庶民からの意見や提案を受け取るための箱で、江戸城の前に設置されました。
民衆の声を直接聞こうとしたこの仕組みは、当時としては画期的でした。
現代でいう「意見箱」や「市民アンケート」のようなもので、政治と民衆をつなぐ役割を果たしました。
実際に目安箱から出された意見をもとに、医者の制度改善などが実施された記録もあります。
この姿勢は、今でも「開かれた政治」の象徴として評価されています。
倹約令でムダをカット
吉宗は、幕府や大名のぜいたくを禁止し、無駄な支出を削減しました。
これを「倹約令(けんやくれい)」といいます。
たとえば、高価な着物や金銀の装飾を禁止したり、行事の回数を減らしたりしました。
武士に対しても質素な生活を求め、自分自身も倹約を実践していました。
このように「まず自分が手本になる」という姿勢が、吉宗の信頼を高めました。
江戸の町のルールを整備
享保の改革では、江戸の町のルールや制度も見直されました。
火事や災害への備えとして「町火消し(まちびけし)」が設置されたのもその一つです。
また、治安維持や衛生環境の整備など、都市としての江戸の機能を高める改革が行われました。
これにより、江戸はますます安全で暮らしやすい都市へと変化していったのです。
庶民にもやさしい将軍だった?
薬や病院への支援
徳川吉宗は、病気に苦しむ庶民のために薬の価格を下げる政策を行いました。
当時の薬はとても高価で、貧しい人たちは手が出せないものでした。
吉宗は「薬種問屋(やくしゅどんや)」という薬を扱う業者を規制し、価格を安定させるよう命じました。
また、効果がある薬の調査を行い、質の悪い薬が出回らないように管理しました。
さらに、町に薬局をつくり、病気の人が治療を受けられるように制度を整えました。
これは、当時の日本では非常に珍しいことで、医療の平等化に大きく貢献したのです。
このような取り組みは、現代の保健制度のはじまりとも言われています。
農民の声を聞く政策
吉宗は、農民の声を直接聞くための仕組みを整えました。
その代表的な例が、先にも触れた「目安箱」です。
農民からの「困っていること」「こうしてほしい」という意見を、幕府が受け止める場をつくったのです。
これは、武士やお上が一方的に命令するのではなく、庶民の声を聞こうとした姿勢のあらわれでした。
また、凶作や飢饉が起きたときには、食料の備蓄を命じたり、税を一時的に免除したりと柔軟な対応も見せました。
「人々の暮らしが安定してこそ、国も安定する」
そう考えた吉宗の政治は、庶民からの信頼を集めていきました。
火事や災害への備え
江戸の町は、木造の建物が多かったため、火事がとても多く発生していました。
吉宗は、火事による被害を減らすため、「町火消し」という消防組織を作りました。
これは町人たちが協力して火を消すチームで、今でいう消防団のような存在です。
また、避難場所や水の備蓄場所も整備され、災害対策が本格的に始まったのです。
さらに、大きな地震や洪水のあとには、復興支援も行いました。
こうした政策は、江戸の町を安全な都市へと変える重要な一歩となりました。
学問や教育のすすめ
吉宗は学問をとても大切にした将軍です。
江戸の「昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)」という学校を再整備し、多くの人に学問を学ばせました。
ここでは、武士だけでなく、有能な町人や農民の子どもたちも教育を受ける機会がありました。
また、農業や医学など実用的な学問を重視し、社会に役立つ知識を広めようとしました。
書物の出版も奨励し、庶民でも読み書きを学べる環境が整えられていきました。
知識を持つことで貧しさから抜け出せる。
吉宗は、そんな未来を信じて教育に力を入れていたのです。
質素な生活を自ら実践
吉宗は、将軍でありながらとても質素な生活を送っていました。
高級な着物やごちそうには興味を持たず、ふだんは粗食で暮らしていたと伝えられています。
また、将軍の住まいである「江戸城」でも無駄な飾りを好まず、装飾費を大きく削減しました。
これは、倹約令を出すだけでなく、自分自身がその手本になるための行動でした。
「お金のムダ遣いをやめよう」と言うだけでなく、自らも実践することで、周囲の人々に強い影響を与えました。
このようなリーダーシップは、今でも高く評価されています。
吉宗の改革は成功したのか?
経済への影響
吉宗の享保の改革によって、幕府の財政は一時的に安定しました。
年貢収入の増加や無駄な支出の削減により、幕府の借金は減っていきました。
また、農業生産が上がったことで、米の流通もスムーズになり、物価の安定にもつながりました。
一方で、農民にとっては年貢の負担が大きくなった面もありました。
そのため、場所によっては一揆(いっき)が起こることもありました。
吉宗の改革は、経済を改善する効果があった反面、庶民には我慢を強いる側面もあったのです。
改革の短所と限界
吉宗の改革は多くの点で成功しましたが、完璧だったわけではありません。
とくに、武士の収入は変わらず、物価の変動についていけず困窮する者も多くいました。
また、幕府の中央集権的な体制はそのままで、地方の自由な発展は制限されがちでした。
改革の途中で起きた自然災害や飢饉により、せっかくの政策も効果が半減する場面がありました。
吉宗の意志だけではどうにもできない自然の力に、限界を感じたとも言われています。
武士の不満と庶民の支持
倹約や改革で一番影響を受けたのは武士階級でした。
ぜいたくができず、収入も増えない中で、生活が苦しくなった武士も多くいました。
一方で、庶民にとっては「正直で平等な将軍」という評価がありました。
特に薬の価格を下げたり、災害対策をしたりと、直接生活に関係する政策が好感をもたれたのです。
吉宗の政治は、武士と庶民のあいだで評価が分かれるものでしたが、「未来を見据えた改革」として今も語り継がれています。
政治の安定への貢献
享保の改革は、短期的な経済回復だけでなく、長期的な政治の安定にも貢献しました。
無駄な戦いや騒動を避け、国全体を「平和で安定した社会」へと導いたのです。
この安定は、次の将軍たちにも大きな財産となりました。
また、改革を通じて多くの制度が整備され、近代の政治や経済の基盤がつくられたとも言えます。
次の将軍への引き継ぎ
吉宗の改革は、彼ひとりで完結するものではありませんでした。
息子や孫たちが次の将軍となる中で、その思想や方針が受け継がれていきました。
特に「庶民の声を聞くこと」「質素な政治を行うこと」は、後の時代にも影響を与えました。
吉宗は「一代限りの名君」ではなく、「時代をつなぐ政治家」として高く評価されているのです。
今に伝わる吉宗の影響とは?
暴れん坊将軍のドラマで人気に
1978年から始まった時代劇『暴れん坊将軍』は、徳川吉宗を主人公にした大ヒットドラマです。
町人に変装して市中を歩き、悪をこらしめる姿が人気を呼びました。
実際の吉宗がそんな行動をしていたわけではありませんが、「庶民思いの将軍」というイメージは本物です。
このドラマによって、子どもから大人まで幅広い世代に吉宗の名前が知られるようになりました。
歴史に興味を持つきっかけになったという人も多く、テレビの力で「徳川吉宗=正義感の強い将軍」という印象が定着しました。
今でも再放送されるほど人気があり、吉宗は「親しみやすい歴史人物」として定番になっています。
目安箱のアイデアが現代にも
吉宗の代表的な政策「目安箱」は、今の社会にも活かされています。
たとえば、市役所や学校にある「意見箱」、企業の「投書制度」などがその例です。
「一方的な命令ではなく、下の立場の声も取り入れる」
この考え方は、現代の民主主義や参加型社会の基礎とも言えます。
また、インターネットの「ご意見フォーム」や「アンケート」なども、まさに目安箱の現代版です。
吉宗のアイデアは、300年経った今も色あせずに活躍しています。
江戸時代の基礎をつくった功績
吉宗の行った享保の改革は、ただの「節約政策」ではなく、江戸時代全体の安定につながる基礎作りでした。
幕府の財政を立て直し、庶民の生活を支え、災害への備えを整えるなど、多方面にわたって改善を図りました。
この安定した社会があったからこそ、江戸時代は「泰平の世」と呼ばれる長期の平和時代を保つことができました。
吉宗がいなければ、その後の江戸幕府はもっと早く崩れていた可能性もあります。
日本の歴史における「安定の礎(いしずえ)」を築いた功績は非常に大きいのです。
公平な政治の大切さを教えた人
徳川吉宗は、身分にとらわれず、実力と民意を重視した政治を行いました。
これは当時としてはとても珍しく、画期的な考え方でした。
今の日本でも、「誰にでもチャンスがある社会」「一人ひとりの意見を大切にする政治」が理想とされています。
吉宗のようなリーダーシップは、現代の政治家にも大きなヒントを与えてくれます。
時代は変わっても、「誠実で公平な政治」の重要性は変わりません。
吉宗の姿勢は、現代の私たちにも学ぶべき点がたくさんあるのです。
歴史教育に欠かせない人物
徳川吉宗は、日本の歴史を学ぶうえで欠かせない存在です。
小学校や中学校の教科書にも登場し、「名君」として紹介されています。
政治、経済、福祉、教育と、あらゆる分野に影響を与えた人物であり、その功績は今も多くの人に尊敬されています。
また、漫画やアニメ、ゲームなどでもキャラクターとして描かれることがあり、子どもにもなじみのある存在です。
「歴史=難しいもの」というイメージを変え、「歴史=身近でおもしろいもの」にしてくれる存在が徳川吉宗です。
徳川吉宗はどんな人だったのか?まとめ
徳川吉宗は、江戸幕府の八代将軍として、混乱していた社会を立て直した偉大なリーダーです。
享保の改革を通じて、経済を安定させ、庶民の暮らしを支え、未来の日本の基礎を築きました。
「目安箱」や「町火消し」など、現代につながる仕組みも多く生み出しました。
また、自らも倹約を実践する誠実さや、教育を重視する姿勢は、今でも多くの人の心に残っています。
「暴れん坊将軍」として親しまれる一方で、実際には地道な努力を続けた堅実な人物でした。
徳川吉宗の政治とその精神は、300年たった今でも私たちに多くのことを教えてくれます。
歴史を学ぶ上で、そして「良いリーダーとは何か」を考える上で、吉宗は理想的な人物の一人といえるでしょう。