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一橋慶喜ってどんな人?何をした人?大政奉還やその後の人生をわかりやすく

「一橋慶喜って名前は知ってるけど、結局なにをした人なの?」

そんな疑問を持ってこの記事にたどり着いた方も多いのではないでしょうか?

一橋慶喜は、江戸幕府最後の将軍として知られる人物ですが、実はただの「幕府の終わりを見届けた人」ではありません。

戦争を避けるために自ら政権を手放し、日本を近代国家へと導いた「静かな革命家」なのです。

この記事では、そんな一橋慶喜の人生や功績を、歴史初心者でもわかるようにやさしく解説しました。

目次

一橋慶喜って誰?名前からしてわかりづらい!

江戸幕府最後の将軍って本当?

一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)は、江戸幕府15代将軍であり、幕府を終わらせた最後の将軍です。

つまり、彼は「幕府のリーダー」である将軍を務めたあと、自らその座を手放し、日本を新しい時代へと導いた人物です。

慶喜はとても頭が良く、冷静な判断ができることで知られていました。

そんな彼が将軍になったのは、混乱する時代のなかで、日本の未来を真剣に考えていたからです。

しかし、その結果が「幕府の終わり」になるとは、当時の人々も思っていなかったかもしれません。

「一橋家」って何?徳川家とどう違う?

「一橋家(ひとつばしけ)」は、徳川御三卿(ごさんきょう)と呼ばれる徳川家の分家のひとつです。

将軍に子どもがいないときの“予備”としてつくられた家です。

つまり、将軍の代わりに立てられることがある「特別な家柄」なんです。

一橋慶喜は、この一橋家の出身であり、もとは将軍になる予定ではありませんでした。

しかし、混乱の幕末、徳川慶福(よしとみ)などの後継争いの中で、慶喜が将軍候補として推されるようになります。

慶喜の幼少期と家柄の秘密

慶喜は1837年、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の七男として生まれました。

つまり、生まれは「水戸徳川家」です。

その後、特別に一橋家の養子になり、一橋慶喜と名乗るようになります。

小さい頃からとても聡明で、剣術や学問にも優れていたといわれています。

そんな優秀な少年が、やがて日本の歴史を大きく動かす人物になるとは、本人も想像していなかったでしょう。

なぜ将軍になったのか?その背景

当時の日本は、アメリカなどの外国からの圧力を受けて「開国か?鎖国か?」と大きく揺れていました。

13代将軍・徳川家定には子がなく、次の将軍を誰にするかで大きな争いが起こります。

このとき、水戸藩の徳川斉昭や越前藩の松平春嶽などが「一橋慶喜こそふさわしい」と推したのです。

結局、最初は慶喜ではなく徳川家茂が14代将軍になりますが、1866年に家茂が亡くなったことで、翌年に慶喜が15代将軍に就任します。

そもそも何をしたの?代表的な功績まとめ

一橋慶喜のいちばん大きな功績は、「大政奉還(たいせいほうかん)」をおこなったことです。

つまり、自分が握っていた幕府の力を朝廷に返したのです。

これにより、長く続いていた江戸幕府は終わりを迎えました。

しかも、それを「戦わずして実行した」ところが、歴史上とても珍しい点です。

この平和的な政権移行は、世界でも注目されている歴史的なできごとです。

大政奉還とは?慶喜がやった最大の仕事

大政奉還の意味をかんたんに解説

「大政奉還」とは、将軍が持っていた政治の力(大政)を、天皇に返すことを意味します。

江戸時代は、天皇は存在していましたが、政治はすべて将軍が行っていました。

それを「もう幕府はいりません」と言って、自分から手放したのが慶喜です。

この決断が1867年、京都の二条城で行われました。

今でも観光地として有名ですね。

どうして幕府を返したの?その理由とは

幕府の力はすでに弱まり、薩摩藩や長州藩などの倒幕勢力が強まっていました。

そのまま戦争になれば、多くの人が死ぬ可能性がありました。

慶喜はそれを避けるために、自ら政権を返すことで、無血の改革を目指しました。

この判断はとても勇気がいることでしたが、日本を内戦から守るための選択だったのです。

朝廷との関係と政治的なかけひき

大政奉還の背景には、慶喜の政治的な計算もありました。

「政権を返しても、自分が中心となって政治を続ければいい」と考えていた面もあります。

つまり、名目上は天皇に返しても、実際の権力はまだ手放すつもりはなかったのです。

しかし、倒幕派はさらに「王政復古の大号令」を出して、慶喜を完全に排除しようとしました。

ここで慶喜の思惑はくずれ、次の段階へと時代は進んでいきます。

大政奉還後にどうなった?日本の変化

大政奉還のあと、日本は「明治時代」に入りました。

天皇が政治の中心となり、明治政府が誕生します。

その後、西洋の技術や文化を取り入れる「文明開化」が進み、鉄道、郵便、学校制度などが整備されていきます。

まさに大政奉還は、近代国家・日本のスタートラインだったのです。

世界の中でも珍しい「平和的政権移行」

歴史を見ても、政権が交代するときは戦争やクーデターが多いです。

しかし日本は、一橋慶喜の決断によって、戦争をせずに新しい時代に入りました。

これは世界的に見ても、とてもめずらしく、評価されているポイントです。

幕末の時代背景と一橋慶喜の立ち回り

黒船来航と日本の動揺

1853年、アメリカのペリー提督が率いる「黒船」が浦賀に来航しました。

このできごとは、日本にとって衝撃でした。

それまで鎖国をしていた日本に、突然「開国しろ」と迫ってきたからです。

黒船は西洋の最新技術でつくられた軍艦で、当時の日本人から見ると、まるで怪物のように感じられました。

これをきっかけに、日本中が「このままでいいのか?」と騒ぎはじめます。

慶喜が将軍になる少し前のことですが、これがすべての始まりでした。

開国か鎖国かで揺れる日本

黒船来航以降、「開国派」と「攘夷(じょうい)派」に分かれて、国の方針が大きく揺れました。

開国派は、「外国と仲良くして技術を学ぼう」と考えます。

一方、攘夷派は「外国人は追い出せ!」と考えます。

この対立は、幕府の中でも大きな問題となりました。

一橋慶喜は、この対立を冷静に見て、「無理に戦っても勝てない。ならば学ぶべきだ」と判断します。

つまり、開国派の現実的な立場をとったのです。

慶喜が選んだ「現実路線」とは?

慶喜は、西洋列強と戦っても勝ち目がないと判断していました。

そのため、「日本が独立を保つには、まず学ばなければならない」と考えました。

この考えは、幕末では少数派でしたが、後に明治政府が実行した「文明開化」と同じ方向性です。

つまり、慶喜はすでにその時代を先取りしていたとも言えます。

また、彼は無駄な戦争を避けようとする性格でもありました。

戦うよりも、平和的に道を切り開こうとした姿勢が、後の「大政奉還」にもつながっていきます。

幕府内の対立と一橋派の台頭

幕府の中でも、将軍の後継ぎ問題で大きな対立がありました。

そのとき登場したのが「一橋派」と「南紀派(なんきは)」です。

一橋派は、一橋慶喜を次の将軍に推すグループ。

南紀派は、紀州藩出身の徳川慶福(後の家茂)を推すグループでした。

この争いは「安政の大獄(あんせいのたいごく)」や「桜田門外の変」など、激しい事件を生み出しました。

その中で、慶喜は次第に政治の中心に近づいていきます。

この流れが、最終的に彼が15代将軍になる背景となりました。

長州藩・薩摩藩との関係

幕末で特に重要な勢力が、長州藩と薩摩藩です。

このふたつの藩は、倒幕の中心となったグループです。

一時期、慶喜はこれらの藩ともうまく協力しようと試みました。

しかし、薩摩や長州は「幕府そのものを終わらせたい」と考えていたため、協力は長続きしませんでした。

結果として、慶喜は政治の中心にいながらも、孤立していく形になります。

それでも彼は、最後まで「戦わずして道を切り開く」という方針を貫きました。

戦わずして退いた将軍:鳥羽伏見の戦いとその後

鳥羽伏見の戦いとは?なぜ起きたのか

1868年、慶喜は「大政奉還」をしたにもかかわらず、薩摩・長州を中心とした新政府軍と衝突します。

これが「鳥羽伏見の戦い(とばふしみのたたかい)」です。

原因は、旧幕府側がまだ軍を持っていたこと、そして新政府が「慶喜を排除する方針」を明確にしたことです。

つまり、政治の場から追い出され、最終的には武力で決着をつけられることになりました。

この戦いは、京都の南部で起き、日本初の近代的内戦ともいえる出来事です。

慶喜の「逃走」は裏切りか戦略か?

この戦いの最中、慶喜は大阪城にいました。

しかし、戦いが不利になると、船で江戸へと逃げ帰ります。

この行動については「裏切りだ」と批判する声もありました。

一方で、「戦争を長引かせないための決断だった」とする見方もあります。

実際、慶喜が江戸に戻ったあと、無駄な戦いを避け、最終的には勝海舟や西郷隆盛との交渉で「江戸城無血開城」を実現します。

つまり、大量の犠牲を防ぐための逃走だったとも言えるのです。

上野の寛永寺から水戸・静岡へ

鳥羽伏見の戦いの後、慶喜は政治の表舞台から完全に退きます。

まずは上野の寛永寺に身を隠し、のちに水戸、そして最終的には静岡で余生を過ごすことになります。

静岡では、趣味の狩猟や写真撮影を楽しみながら、静かな生活を送りました。

このように、元将軍が平民として暮らすことは、当時としては異例のことでした。

しかし、それを可能にしたのは、慶喜自身の選択と、新しい時代を生きる知恵でした。

政治の表舞台から身を引いた理由

慶喜は、鳥羽伏見の戦いを経て、「もう自分の役割は終わった」と感じていたようです。

さらに、政治の混乱をこれ以上引き起こしたくないという想いもありました。

明治政府も、慶喜をあえて処罰せず、「静かにさせる」方針をとりました。

これにより、彼は二度と政界に戻ることはありませんでした。

その後の日本は、明治政府を中心に近代国家への道を進んでいきます。

その後の人生はどんなものだった?

静岡に住んでからの慶喜は、政治とは無縁の穏やかな暮らしをしていました。

狩り、書道、写真撮影などに熱中し、とくに写真では自ら現像もしていたそうです。

1897年には、公爵の位を与えられ、明治天皇との関係も修復されました。

1913年に亡くなるまで、彼は「元将軍」としてではなく、「一人の明治人」としての人生を全うしました。

一橋慶喜の功績と現代への影響

徳川家が今も続く理由

一橋慶喜が平和的に政権を返したことで、徳川家は「完全に滅びる」ことを避けることができました。

もし彼が最後まで抵抗して戦いを続けていれば、徳川家は土地や財産、名誉すらすべて失っていたかもしれません。

しかし、慶喜の判断によって、徳川宗家は静岡に移され、「華族」として明治時代を生き延びることができたのです。

その結果、徳川宗家は現代にもつながっており、今も歴史的な家柄として存続しています。

つまり、一橋慶喜の決断は、「徳川家を未来に残す」という形で現代にも影響を与えているのです。

日本の近代化への「平和的スタート」

大政奉還によって、戦争を最小限に抑えたことは、日本の近代化にとって大きな意味がありました。

内戦による破壊や混乱が少なかったため、明治政府はスムーズに新しい制度づくりを始められたのです。

学校制度、鉄道、郵便、憲法など、日本が急速に近代国家として発展した背景には、慶喜の「平和的退場」がありました。

これにより、他の国が経験したような血なまぐさい革命ではなく、「静かな革命」が日本で実現したのです。

「自ら身を引く」ことで守ったもの

一橋慶喜の一番の特徴は、「自分の地位や名誉よりも、日本全体の安定を優先した」という点です。

自分が将軍としての力を持ち続けたい気持ちはあったかもしれません。

しかし、慶喜はそれを手放すことで、多くの命を救い、日本を混乱から守りました。

これは、普通の権力者にはなかなかできない決断です。

この「潔さ」と「引き際の美学」は、今でも多くの日本人に尊敬されています。

明治天皇との関係とその後の評価

慶喜は、明治政府に対して敵対することなく、穏やかに引退生活を送っていました。

その後、明治天皇からも信頼を回復し、公爵という位階を授けられます。

明治天皇は、慶喜に対して「恨みを持たない」と語ったとされています。

これにより、慶喜は「反逆者」として扱われることなく、歴史の中で独自の立ち位置を保ちました。

その後の歴史家たちも、彼の判断力と平和的な姿勢を高く評価するようになります。

教科書に載っているけど実は誤解も多い

一橋慶喜については、「逃げた将軍」とか「無責任な人」というイメージを持つ人もいます。

しかし、実際にはとても理性的で冷静な判断を重ねていた人物でした。

政治の難しさ、時代の流れ、自分の限界を見極めたうえでの選択だったのです。

現代の教科書では、その背景まで詳しく載っていないこともあり、表面的な理解にとどまることが多いのが現実です。

だからこそ、正しい視点で慶喜の行動を見直すことが大切です。

一橋慶喜は何をした人?まとめ

一橋慶喜は、江戸幕府の最後の将軍として知られていますが、実は日本の歴史を大きく変えた「静かな改革者」でした。

彼が行った「大政奉還」は、日本を内戦から守り、明治時代という新しい時代への橋渡しをした歴史的な大きな決断です。

また、彼の判断によって徳川家は現代まで続き、日本の近代化もスムーズに進みました。

表面だけを見れば「逃げた将軍」と思われがちですが、その奥には深い計算と平和を願う強い思いがあったのです。

私たちが今、戦争のない時代に生きられるのも、こうした静かな決断をした先人たちのおかげです。

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