「坂本龍馬って、歴史の授業で聞いたけど、何をした人なの?」
そんな疑問を持っているあなたへ。
この記事では、坂本龍馬の人生や行動、そして彼が日本に残したものを、子どもにもわかりやすく、やさしい言葉で解説します。
写真やエピソード、ちょっとした裏話まで盛りだくさん!読んだ後には「坂本龍馬ってすごい人だったんだ!」と、きっと感じられるはずです。
坂本龍馬ってどんな人?プロフィールを簡単に紹介
土佐藩に生まれた龍馬の生い立ち
坂本龍馬(さかもと りょうま)は、1836年に土佐藩(現在の高知県)で生まれました。土佐藩は江戸時代の大名が治める藩のひとつで、龍馬の家は「郷士(ごうし)」と呼ばれる下級武士の身分でした。郷士というのは、武士ではあるけれども、上級武士とは一線を画した立場にあり、藩の中でも差別されることがあったのです。このような身分制度に疑問を持ったことが、後の龍馬の考え方にもつながっていきます。
幼いころの龍馬は、泣き虫で運動も苦手だったと言われています。しかし、姉の乙女(おとめ)が教育熱心だったことから、読み書きや剣術を学ぶようになりました。特に剣術にはのめり込み、やがて上達していきます。このような環境の中で育ったことが、龍馬の柔軟な考え方や、身分にとらわれない人付き合いにつながったのかもしれません。
剣術修行で江戸へ!黒船との出会い
龍馬は19歳のときに剣術修行のため、江戸(今の東京)に出ます。そこで学んだのが、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)という剣術流派で、免許皆伝(教える資格)も得ています。ちょうどその頃、日本に大きな衝撃を与える出来事が起こりました。そう、ペリー提督の「黒船来航」です。1853年、アメリカの艦隊が浦賀に現れ、日本に開国を迫りました。
この出来事は、当時の日本人にとってまさに大事件。鎖国をしていた日本は、外国とほとんど交流を持っていなかったため、黒船の姿に驚きと恐怖を感じた人が多かったのです。龍馬もその一人で、外国の力に強い関心を持ち始めました。ここから、ただの剣術修行の青年が、世界を見るような広い視野を持つようになっていくのです。
脱藩ってなに?藩を飛び出した理由
龍馬はやがて、自分の所属していた土佐藩を抜け出します。これを「脱藩(だっぱん)」といいます。現代でいうと、公務員を辞めて無断で海外に行くような、かなり重大な行動です。脱藩は当時、重い罪にあたるもので、命を落とすこともあったのです。それでも龍馬は、自分の理想とする「新しい日本」をつくるため、覚悟を決めて脱藩します。
当時、日本は幕府が中心の政治体制で、多くの藩がバラバラに力を持っている状態でした。龍馬は、「このままでは日本は外国に負けてしまう」と危機感を持ち、幕府だけに頼らず、みんなが力を合わせて一つの国として動くべきだと考えていたのです。だからこそ、藩という枠にとらわれない行動が必要だったのです。
坂本龍馬の性格や人柄
坂本龍馬は、非常に人懐っこく、誰とでも分けへだてなく接する性格だったと言われています。また、理想を持ちながらも現実的に物事を進める柔軟性を持っていたともされています。時には冗談を言って場を和ませたり、敵だった人とも話し合いで分かり合おうとしたりと、その人柄に惹かれる人が多かったのです。
さらに、相手の立場に立って考える力や、先を見通す目も持っていました。それが、薩摩藩や長州藩といった大きな勢力の人々からも信頼される理由となりました。人と人とをつなぐ「橋渡し役」としての能力は、現代でいうと交渉力やコミュニケーション力の高いリーダータイプだったと言えるでしょう。
写真で見る!坂本龍馬のビジュアルと残されたもの
坂本龍馬は、日本で初めて「写真に写った歴史的人物」としても有名です。現存する写真の中で、彼が袴(はかま)を履いて立っている姿のものが特に有名です。この写真を見たことがある人も多いのではないでしょうか。ひげを生やし、少しぼんやりした目元が印象的です。背も高く、当時の日本人としては珍しい体格をしていたとも言われています。
また、龍馬が使っていた刀や手紙、そして彼が考えた「船中八策(せんちゅうはっさく)」などの資料も現代に残っています。これらは龍馬の考え方や行動を知るための大切な資料となっており、多くの博物館や記念館で展示されています。
坂本龍馬のすごいこと①:幕末の日本を変える考えを持っていた!
「日本を今一度せんたくいたし申候」の意味とは?
この言葉は、坂本龍馬が姉の乙女に宛てた手紙に書かれていた有名な一文です。「日本を今一度せんたくいたし申候(そうろう)」とは、「日本をもう一度、きれいに洗いなおしたいと思っています」という意味になります。この言葉には、当時の日本の政治や社会の仕組みを根本から変えたいという、龍馬の強い意志が込められています。
幕末の日本は、長い間続いた江戸幕府の支配がゆるみ始め、外国との関係や内戦の危機に揺れていました。武士の身分にこだわる古い考え方、外国を恐れて閉じこもる態度、それらを「汚れ」と考え、龍馬は「洗濯」つまり改革が必要だと感じていたのです。この表現は、難しい言葉を使わずに、誰にでもわかりやすく日本の未来を語ったものとして、多くの人の心に残っています。
現代でも、この言葉は「改革」や「大きな変化」を表すときによく引用される名言となっています。
龍馬が考えた「船中八策」とはなに?
「船中八策(せんちゅうはっさく)」とは、坂本龍馬が土佐藩の後藤象二郎と一緒に船の上で話しながらまとめた、日本の未来についての8つの提案です。これは、後の「明治維新」の方向性に大きく影響を与えたといわれています。
内容は以下のようなものでした。
項目 | 内容(現代語訳) |
---|---|
1 | 新しい政府を作るべき |
2 | 上下議員を選ぶしくみを作る |
3 | 政策を議論して決める制度を作る |
4 | 西洋の法律を取り入れる |
5 | 軍隊を整備して日本を守る |
6 | お金の制度を整える |
7 | 外国と平等に交渉できるようにする |
8 | 人材を育てるための教育制度を作る |
このように、坂本龍馬は単に武力で幕府を倒すことではなく、国の仕組みを根本から作り直すという視点を持っていたのです。これは、当時としては非常に進んだ考え方で、多くの人が驚き、尊敬しました。
武力ではなく「話し合い」で平和を目指した
幕末の時代、多くの武士や志士たちは、敵を倒すために刀や鉄砲で戦うという考えが主流でした。しかし、坂本龍馬は違いました。彼は、なるべく武力を使わず、「話し合い」で問題を解決する道を選んだのです。
特に有名なのが、薩摩藩と長州藩の同盟を仲介したとき。普通なら敵対していた両者を会わせること自体が命がけの行為ですが、龍馬は両方の意見をよく聞き、お互いの立場を尊重しながら信頼を築いていきました。
このような行動は、現代でいうと「外交」や「調停」にあたります。龍馬は日本初の「平和的リーダー」とも言える存在だったのです。その結果、多くの血を流すことなく、新しい日本の形を模索する土台が作られていきました。
日本を守るために海外の力を学んだ理由
龍馬は、日本が外国に負けない国になるためには、ただ閉じこもるのではなく、積極的に海外の技術や文化を学ぶ必要があると考えていました。これも当時としては非常に珍しい考え方でした。
たとえば、龍馬は西洋式の軍艦や武器、航海術に注目していました。自らも海軍の知識を学び、貿易の仕組みなどにも関心を持っていました。こうした知識を活かして、日本の防衛力を高め、外国に依存しすぎない国を作ろうとしていたのです。
また、世界の国々と対等な立場で話ができるように、国の制度や法律も整える必要があると考えていました。つまり、龍馬は「グローバルな視点」を持った日本のパイオニアだったのです。
幕府でもなく藩でもない「新しい国」を夢見た
坂本龍馬の理想は、「幕府でもない」「藩でもない」まったく新しい国をつくることでした。それは、今でいう「民主国家」に近い考え方です。藩や幕府といった力を持った一部の人たちだけが支配するのではなく、すべての日本人が平等に生きられる社会を目指したのです。
龍馬の考えは、当時としては革新的すぎて、理解されにくい部分もありました。しかし、彼の志は明治維新の中で徐々に実現していきます。中央集権国家としての日本、議会制の導入、教育制度の整備など、その多くは龍馬が考えていた「新しい国」のかたちだったのです。
坂本龍馬のすごいこと②:薩長同盟を実現させた立役者!
薩摩藩と長州藩って何を争ってたの?
幕末の日本では、いくつもの藩がそれぞれの立場で幕府と対立したり、同盟を結んだりしていました。中でも有名なのが「薩摩藩(さつまはん)」と「長州藩(ちょうしゅうはん)」です。薩摩藩は現在の鹿児島県、長州藩は現在の山口県にあり、それぞれ非常に力のある藩でした。
しかし、この二つの藩はもともと非常に仲が悪く、まるで犬猿の仲とも言えるほどでした。その原因は、幕府との関係や政治的な考え方の違いにありました。長州藩は早くから幕府を倒すべきだと考え、過激な行動をとっていたため、幕府から敵と見なされていました。一方の薩摩藩は、最初は幕府寄りの立場で、長州藩に対して軍を動かすこともあったのです。
このように、政治的な対立だけでなく、過去の戦いの因縁などもあり、両藩の間には深い溝がありました。普通であれば、協力しあうなど到底考えられなかったのです。
なぜ龍馬が両者の仲をとりもてたの?
この二つの大藩を協力させたのが、まさに坂本龍馬です。龍馬は脱藩して中立的な立場だったからこそ、どちらの藩にも肩入れせず、冷静に話を進めることができました。薩摩にも長州にも信頼されていた龍馬は、それぞれの考えや立場を理解し、誤解を解きながら「共通の敵は幕府」という視点を共有させたのです。
さらに、龍馬は交渉の場を用意し、時には密談をセッティングするなど、裏方に徹して動きました。そしてついに1866年、薩摩と長州が同盟を結ぶ「薩長同盟(さっちょうどうめい)」が実現します。この同盟が成立したことで、幕府を倒すための強力な連携が生まれたのです。
これはまさに龍馬がいなければ成しえなかった奇跡の出来事でした。表に出ることは少なかったものの、交渉の中心には常に龍馬の姿があったのです。
薩長同盟がもたらした日本への影響
薩長同盟が成立したことによって、幕府に対抗する力が一気に強まりました。それまで一枚岩になれなかった反幕府勢力がまとまり、結果的に「明治維新」へとつながっていくのです。この同盟がなければ、幕府の支配はまだ続いていたかもしれませんし、内戦がもっと激化していた可能性もあります。
また、この同盟をきっかけに、他の藩も時代の流れを感じ取り、次第に幕府から離れていきました。まさに、時代を動かす「起爆剤」となったのが薩長同盟だったのです。坂本龍馬の外交センスと人間関係の構築力が、日本の歴史を大きく変えた瞬間でした。
実は裏で活躍!表に出なかった坂本龍馬の努力
薩長同盟は、表向きは薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)と長州藩の木戸孝允(きどたかよし)が主役となって結ばれたように見えます。しかし、実際には坂本龍馬が何度も両者と会い、信頼関係を築きながら、地道に交渉を進めていたのです。
当時は正式な書類も少なく、密談も多かったため、龍馬の名前は表に出ることが少なかったのですが、両藩の証文にはしっかりと「坂本龍馬」の署名が残されています。これは、彼が同盟の成立に不可欠な存在だったことを証明しています。
龍馬のような「影の立役者」は、今でいうと調整役やプロジェクトマネージャーのような存在です。表には出なくても、誰よりも全体を見て動き、最終的に成功へ導く力を持っていたのです。
龍馬がいなかったら、明治維新はどうなってた?
もし坂本龍馬がいなかったら、薩摩と長州が協力することはなかったかもしれません。そして、明治維新という大きな改革も、もっと遅れるか、別の形になっていたでしょう。日本が近代国家になるための道筋が、もっと混乱していたかもしれないのです。
龍馬のように、自分の利益を求めず、ただ「国の未来」のために動いた人物は、歴史上でも珍しい存在です。だからこそ、多くの人が彼を尊敬し、「日本を変えた男」として今でも語り継がれているのです。
坂本龍馬のすごいこと③:日本初の会社「亀山社中」を作った!
亀山社中って何をする団体だったの?
「亀山社中(かめやましゃちゅう)」とは、坂本龍馬が1865年に長崎で仲間たちと設立した、日本初の商社・貿易会社のような組織です。現代でいえば、ベンチャー企業のような存在で、幕末という激動の時代に誕生しました。場所は長崎の亀山という地区にあったため、「亀山社中」と名づけられました。
この社中の目的は、単なる商売だけではありません。大きく分けて次の3つの活動を行っていました:
- 武器の調達と仲介
幕府や諸藩とは違うルートで武器を手に入れることにより、薩摩や長州などの藩に支援を行った。 - 海運・貿易活動
外国と取引しながら、船を使って物資の運搬を行い、日本の近代化を後押しした。 - 国の未来のための人材育成
仲間たちは皆、理想に燃えた若者ばかりで、商売をしながら日本のあり方を学び合っていた。
これらは、幕末の混乱の中で新しい道を模索する挑戦でした。坂本龍馬は、武士でありながら実業家としての顔も持っていたのです。
武器の調達から貿易まで!龍馬のビジネスセンス
坂本龍馬のすごいところは、「商売」と「政治」をつなげて考えていた点にあります。彼は亀山社中を通じて、薩摩藩とイギリスの商人との間で取引を成立させ、長州藩に最新の銃器を届けるという、まるで国際ビジネスのようなことを成し遂げました。
その際、龍馬は「薩摩藩名義で購入することで、幕府の目を欺く」という裏技を使いました。つまり、表向きは薩摩藩が買ったように見せかけて、実際には長州藩に渡すという仕組みです。これは、幕府の監視が厳しい中で自由な取引が難しかった時代には、非常に賢いやり方でした。
こうした柔軟な発想力と行動力は、ビジネスの世界でも通用するもので、現代の起業家たちも見習うべき点がたくさんあると言えるでしょう。
龍馬の仲間たちが今の日本を支えた
亀山社中には、後の日本を支える重要な人物たちが数多く在籍していました。たとえば、後に明治政府で活躍する陸奥宗光(むつむねみつ)や、土佐出身の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)など、維新のキーパーソンが集まっていたのです。
彼らは、ただ命令を待つのではなく、龍馬とともに「自分たちで未来を作る」という意志を持って活動していました。これはまさに、現代のスタートアップ企業と同じような精神です。
また、龍馬は仲間に対して非常にフラットな態度で接しており、身分や出身に関係なく意見を聞く姿勢を持っていました。こうした自由で対等なチーム文化が、社中の活発な活動を支えたのです。
海援隊へ発展!その意味と功績
亀山社中はやがて「海援隊(かいえんたい)」という名前に変わります。これは、さらに大きな目的を持った組織として再編されたもので、「海から日本を援(たす)ける」という意味が込められています。新たに土佐藩の支援を受けて、より公的な活動もできるようになりました。
海援隊は、幕末の重要な場面でさまざまな役割を果たしました。貿易や外交、軍事支援、情報収集など、その活動範囲は非常に広かったのです。坂本龍馬はここでもリーダーとして仲間をまとめ、日本全体の動きを見ながら柔軟に行動していました。
また、海援隊には「海軍を作りたい」という龍馬の夢も込められていました。日本が世界と対等に渡り合うためには、海上交通や軍事力が不可欠だと考えていたのです。
「起業家」としての坂本龍馬の側面
現代で坂本龍馬をたとえるなら、政治家でもあり、実業家でもあり、そしてイノベーターとも言えるでしょう。武士でありながら、会社を設立し、外国との取引を行い、未来を見据えた教育や組織づくりにも取り組んだ人物です。
「国のために行動したい」という強い気持ちを持ちながら、実際には具体的な行動に落とし込み、仲間とともに組織を運営していた。その姿勢は、まさに現代の起業家に通じるものがあります。アイデアだけでなく、行動力と仲間を巻き込む力があったからこそ、龍馬の夢は現実へと動いていったのです。
坂本龍馬の最後とその後:暗殺された理由と残されたもの
龍馬が暗殺された「近江屋事件」とは?
坂本龍馬は、1867年11月15日、京都の「近江屋(おうみや)」という醤油屋の2階で暗殺されました。まだ31歳という若さでした。この事件は「近江屋事件」として知られています。龍馬は当時、明治維新の大きな流れを作る最中にあり、政権交代の直前という重要なタイミングで命を落としたのです。
暗殺された時、龍馬は中岡慎太郎とともに泊まっており、襲撃にあった際には何の準備もしていなかったとされています。事件のあと、部屋には斬られた跡や血痕が残っており、非常に凄惨な現場だったことがわかっています。龍馬の死は、全国に大きな衝撃を与えました。
その理由は、単に有名人が殺されたからではありません。彼がいなければ実現しなかった多くの改革が止まってしまう恐れがあったからです。それほどまでに龍馬は、日本の未来にとって重要な人物だったのです。
龍馬はなぜ殺された?黒幕の候補たち
近江屋事件の犯人については、はっきりとした証拠がなく、今でも謎が多いままです。いくつかの説があり、次のような人物や組織が黒幕ではないかと言われています:
- 新選組説:幕府側の治安維持部隊である新選組が、反幕府活動をしていた龍馬を危険視していた。
- 京都見廻組(みまわりぐみ)説:幕府直属の秘密警察的な組織が、政権転覆を阻止するために暗殺を実行。
- 薩摩藩内部説:内部の対立や情報漏れによって、味方のふりをしていた者が龍馬を消したという説。
どの説も信ぴょう性はあるものの、決定的な証拠がないため、今も真相は謎のままです。このミステリアスな結末も、龍馬の物語をよりドラマチックなものにしている要因のひとつでしょう。
死後も人々に愛され続ける理由
龍馬が亡くなった後も、彼の名前や行動は語り継がれ、多くの人々に尊敬されてきました。その理由のひとつは、彼が「一人の武士」としてではなく、「一人の日本人」として時代の変化を信じて行動したことにあります。
さらに、龍馬は自分の利益や名声を追い求めることなく、国全体の未来のために行動していました。この「無私の精神」は、現代人にとっても大きな感動を呼びます。映画やドラマ、アニメなどにもたびたび登場し、今の時代でも「ヒーロー」として多くの人に親しまれています。
また、彼が残した言葉や行動が、「チャレンジ精神」「リーダーシップ」「自由な発想」といった価値観と結びついており、今の時代にも通用する生き方のモデルになっているのです。
龍馬の功績を伝える記念館や観光地
現在、高知県には「坂本龍馬記念館」があり、彼の生涯や功績を知ることができます。展示では、手紙や刀、当時の地図や模型などがあり、龍馬の生きた時代をリアルに感じられるようになっています。
また、京都の近江屋跡地には「坂本龍馬暗殺之地」の碑が立てられており、多くの観光客が訪れています。長崎には亀山社中の跡地が残っており、建物の一部は「亀山社中記念館」として公開されています。
これらの場所を訪れることで、教科書やテレビでは知ることができない、より深い坂本龍馬の姿に触れることができます。ファンにとっては、まさに聖地巡礼のような旅です。
教科書だけではわからない、龍馬の魅力
教科書では「薩長同盟を結んだ人」や「明治維新の立役者」として名前が出てくる坂本龍馬ですが、それだけでは彼の魅力は伝わりません。彼の本当の魅力は、「自分の信念を貫き、時代に先駆けた行動をしたところ」にあります。
たとえば、身分制度に反対したり、敵対していた藩同士をまとめたり、外国と堂々と交渉したりと、すべてが常識を打ち破るものでした。それなのに、決して威張らず、むしろユーモアを交えて仲間と楽しく過ごすような人柄も持っていました。
このバランスの取れた人間性が、坂本龍馬をただの歴史上の人物ではなく、「今の私たちにも通じる存在」にしているのです。
坂本龍馬は何をした人?まとめ
坂本龍馬は、「何をした人?」と聞かれると、多くの人が「薩長同盟を結んだ人」「明治維新を支えた人」と答えるでしょう。しかし、それだけでは語り尽くせない多彩な顔と行動力を持った人物でした。
武士という身分に縛られず、未来の日本の姿を本気で考え、行動し、そしてそれを仲間と一緒に実現しようとした龍馬。彼が作った「亀山社中」は日本初の会社のような組織であり、その考え方は今の起業家にも通じるものがあります。しかも、彼は自分が表に出ることなく、あくまで「日本のため」に行動した、まさに無私のリーダーでした。
また、彼の人柄も多くの人に愛される理由の一つです。笑顔とユーモア、柔らかな態度で敵とも話し合いをし、誰とでも分け隔てなく付き合ったその姿は、現代の日本人にも響くものがあります。
たった31年の生涯でありながら、彼が残した影響は計り知れません。坂本龍馬がいなかったら、日本はまったく違う国になっていたかもしれない。そう思えるほどの偉業を成し遂げたのです。