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歌川広重とは何をした人?簡単にわかる代表作と世界が注目した理由

「歌川広重って、何をした人なの?」

そんな疑問を持つ人は少なくありません。名前は聞いたことあるけれど、何を描いたのか、どうして有名なのか、意外と知られていないかもしれません。

この記事では、歌川広重がどんな人物だったのか、どんな作品を残し、なぜ世界中で評価されているのかを、中学生にもわかるやさしい言葉で解説します。

「東海道五十三次」や「名所江戸百景」などの名作を生んだ広重の魅力を、やさしく、でもしっかりと掘り下げていきましょう!

目次

歌川広重はどんな人?簡単に紹介

江戸時代に活躍した浮世絵師

歌川広重(うたがわ ひろしげ)は、江戸時代の後期に活躍した浮世絵師です。生まれたのは1797年、亡くなったのは1858年です。つまり、日本がまだ江戸幕府に治められていた時代に、町人文化として発展していた浮世絵の世界で人気を博しました。広重は風景画を得意としており、色彩の美しさや構図の独自性が特徴です。

浮世絵といえば、当時のスターだった歌舞伎役者や美人画を描いたものが多い中で、広重は「風景画」という新たなジャンルを開拓し、日常の風景や旅の途中の自然を芸術に昇華しました。葛飾北斎と並んで「風景画の巨匠」と称されることもあります。

「東海道五十三次」で大人気に

歌川広重の名前を世に知らしめたのが、「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」というシリーズです。これは、江戸(現在の東京)から京都までをつなぐ東海道という主要な街道にある53の宿場町を描いた作品群です。

このシリーズが大ヒットし、一躍人気絵師としての地位を確立しました。広重はこの作品で、雨の日のしっとりした街道や、雪の積もった町、のどかな川辺など、当時の旅の様子を美しく表現しています。見る人にまるで自分が旅をしているかのような感覚を与える絵で、多くの人々に親しまれました。

絵を描く前はお役所勤めだった

実は広重は、最初から絵師だったわけではありません。父親が江戸の消防組織「定火消(じょうびけし)」に勤めていたため、その仕事を引き継ぐ形で役所勤めをしていました。

ところが、絵を描くことへの情熱を抑えきれず、15歳のときに歌川豊広(うたがわ とよひろ)に弟子入りしました。やがて才能が開花し、役所の仕事をやめて本格的に浮世絵師として活動するようになります。このエピソードからも、広重が本当に絵を描くことが好きだったということが分かりますね。

ゴッホやモネに影響を与えた

広重の浮世絵は、日本国内だけでなく、海外にも影響を与えました。19世紀後半になると、日本の美術品がヨーロッパに輸出され始め、フランスの画家ゴッホやモネなどがその魅力に惹かれていきます。

特に広重の風景画は、構図の斬新さや色使いの美しさが西洋画家にとってとても新鮮だったようです。後ほど詳しく紹介しますが、ゴッホは広重の絵を模写までしています。まさに「世界に誇れる日本人アーティスト」の一人といえるでしょう。

広重の死とその後の評価

広重は1858年にコレラが原因で亡くなりました。60歳という年齢でした。亡くなる前には、自分のお墓に「東海道広重」という文字を彫ってほしいと頼んだといわれており、それほどまでに「東海道五十三次」に誇りを持っていたことが分かります。

死後も広重の作品は高く評価され続け、明治時代以降、浮世絵が海外に渡るとさらにその価値が再発見されました。現在では日本国内の美術館はもちろん、世界中の美術館でも広重の作品を見ることができます。


広重の代表作「東海道五十三次」とは?

東海道って何?

東海道とは、江戸時代に整備された「五街道」のうちの一つで、江戸と京都を結ぶ重要な道でした。この街道には「宿場町(しゅくばまち)」と呼ばれる休憩所や宿泊所が設けられており、人々はここで休んだり、物資を補給したりして旅を続けていました。

全部で53の宿場町があり、出発点の江戸(日本橋)と終点の京都(三条大橋)を含めると55か所の名所になります。広重はこの旅路のそれぞれの風景を、色彩豊かに描き出しました。

なぜ53もの宿場があったの?

宿場町は単なる休憩所ではなく、江戸幕府が旅人をコントロールし、治安を維持するための重要な施設でもありました。広重が描いた53の宿場には、それぞれの地域の風習や名物、季節の風景が映し出されています。

そのため「東海道五十三次」は、ただの風景画ではなく、当時の日本の文化や社会背景までも映し出しているといえます。江戸から京都までの長い道のりを、広重の絵でたどることができるのです。

広重はどうやって風景を描いた?

広重は実際に東海道を旅したとされ、現地の様子をスケッチして構想を練ったといわれています。また、人々の生活や旅の情景も丁寧に描いており、「風景だけでなく、人も描く」ことでリアルさを引き出しました。

雨の日のしっとりとした街道、雪の降る冬景色、朝焼けに染まる山並みなど、気候や時間帯まで表現している点も注目です。色の使い方や構図が工夫されており、何度見ても飽きない魅力があります。

どこが今でも見られる?

東海道五十三次の風景の多くは、今も実際に見ることができます。例えば、箱根の山道や蒲原の雪景色、宿場町の名残がある草津などは、現代でも訪れることが可能です。中には観光地として整備されている場所もあり、広重の絵と見比べながら歩くと楽しさが倍増します。

また、各地の観光案内所や博物館では、広重の作品のパネルやレプリカが展示されていることもあります。昔の日本の風景と、現代の街並みの違いを感じながら旅をするのもおすすめです。

現代でも人気な理由

「東海道五十三次」は、ただの歴史的資料ではなく、今でもアートとして高く評価されています。ポスターやカレンダー、スマホケース、Tシャツなど、広重のデザインが使われた商品が多く出ています。

その理由は、色合いやデザインが現代の感覚にも合うからです。見た瞬間に「美しい」と思わせる力があり、SNSなどでも話題になります。長い年月を経てもなお愛され続けている理由は、その“美の普遍性”にあるのです。

ゴッホやモネに影響?広重と西洋美術の関係

ジャポニスムってなに?

19世紀後半のヨーロッパでは「ジャポニスム(Japonisme)」という現象が起こりました。これは日本の美術品や文化が西洋の芸術家たちの間でブームになったことを指します。きっかけは、鎖国が終わって日本から工芸品や浮世絵が大量に輸出されるようになったことでした。

このとき特に注目されたのが、歌川広重や葛飾北斎といった浮世絵師の作品です。日本の絵には、遠近法や光と影といった西洋の技法とは違う、シンプルで構成的な美しさがあり、多くの画家たちが影響を受けました。

なぜ西洋の画家が広重に注目?

西洋の画家たちは、広重の構図や色彩、視点の取り方に大きな衝撃を受けました。たとえば、広重の絵には大胆な構図や余白を活かしたデザインが多く、それがとても新鮮だったのです。

また、自然をリアルに描くというよりも、どこか詩的で情緒的に描かれている点も評価されました。これまでの西洋美術では見られなかった視点に、多くの芸術家が魅了されたのです。

ゴッホが模写した広重の絵

オランダの画家フィンセント・ファン・ゴッホは、広重の大ファンでした。特に『名所江戸百景』の中の「大はしあたけの夕立」や「亀戸梅屋舗」を模写しています。ゴッホの模写は単なるコピーではなく、自分なりのタッチや色合いを加えた“再構築”となっており、広重への尊敬がうかがえます。

またゴッホは弟テオへの手紙で、広重の絵を「詩的で、色がすばらしい」と絶賛しています。彼が日本の浮世絵を“心の支え”にしていたことも知られており、広重の存在は彼の画業に深く関わっていたことが分かります。

印象派に与えたインパクト

広重の絵は、ゴッホだけでなく印象派の画家たちにも強い影響を与えました。たとえばクロード・モネやエドガー・ドガなどは、広重の絵に影響されて、色彩や構図に新しい表現を取り入れるようになったといわれています。

彼らは自然の一瞬を捉えることや、季節や時間帯による光の変化に注目するようになりました。広重の作品には、まさに「一瞬を美しく残す」という精神が表れており、それが印象派の基本理念と合致したのです。

世界での評価はどのくらい?

現在、歌川広重の作品は世界中の美術館やコレクターから高く評価されています。ルーブル美術館やメトロポリタン美術館など、名だたる施設に広重の作品が収蔵されているほか、浮世絵展が世界各国で開催されています。

また、オークションでは1枚の版画が数十万円以上で取引されることもあり、アート市場でもその価値は非常に高いです。日本人である私たちがもっと誇るべき文化遺産のひとつです。


他にもある!歌川広重の代表作たち

名所江戸百景

「名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)」は、広重が晩年に手がけたシリーズです。江戸の名所を四季折々に描いた全119点の作品群で、東海道五十三次に次ぐ代表作といえるでしょう。

特に有名なのが「大はしあたけの夕立」や「亀戸梅屋舗」で、これらはゴッホが模写したことでさらに世界的に有名になりました。江戸という都市の美しさ、生活感、自然との調和が繊細に描かれており、現代の東京にも通じる風景が見られます。

京都名所之内

「京都名所之内(きょうとめいしょのうち)」は、広重が京都の名所を描いた作品シリーズです。清水寺、金閣寺、嵐山など、現在も観光地として有名な場所が、浮世絵の中で鮮やかに再現されています。

江戸に住む人々にとって、京都はあこがれの都でした。広重の絵は、旅をしたことがない人たちにもその魅力を伝える“ビジュアルガイド”のような役割を果たしていました。

木曽街道六十九次

「木曽街道六十九次(きそかいどうろくじゅうきゅうつぎ)」は、広重と渓斎英泉(けいさい えいせん)という絵師が共同で制作したシリーズです。中山道と呼ばれる街道の風景を描いた作品で、東海道五十三次と並ぶ人気作品となりました。

こちらも宿場ごとの特徴をとらえた構図が多く、旅の雰囲気や地形の違いが分かりやすく描かれています。色彩や人物の動きも魅力的で、旅の楽しさや厳しさがリアルに伝わってきます。

雪月花シリーズ

「雪月花(せつげつか)」とは、雪・月・花という自然の美しさをテーマにした作品群です。日本では古くから、この三つは風流の象徴とされてきました。広重はこのテーマを基に、多くの美しい風景を描いています。

たとえば雪の降る橋、月明かりに照らされた川辺、桜の咲く名所など、それぞれに情緒があり、見る人の心を打ちます。季節の移ろいを絵で感じることができるシリーズです。

美人画も描いていた?

意外かもしれませんが、広重は美人画も手がけていました。ただし、北斎や喜多川歌麿のように専門というわけではなく、風景画の一部に女性が登場するような構成が多いです。

とはいえ、江戸の町娘や旅人の女性などが登場することで、絵に物語性が生まれています。美人画としての完成度も高く、風景画との融合によって独特の世界観が作り出されています。


広重が残した影響と今も愛される理由

日本人の「風景を見る目」を変えた

広重の絵は、私たち日本人の「風景の見方」に影響を与えました。日常の中にある景色にも美しさがあることを、彼の作品は教えてくれます。旅先だけでなく、橋や川、木々の並ぶ道にも感動がある――そんな視点を広重は描いてきました。

今でも多くの人が「風景を見て心が動く」ことがありますが、それは広重のような絵師の存在があったからこそだともいえるのです。

写真のない時代の「ビジュアル情報」

江戸時代にはカメラはありませんでした。そのため、広重の浮世絵は当時の人々にとって、まさに“情報”でもありました。「どんな場所か知りたい」「旅をしてみたい」と思った人たちにとって、浮世絵は最高の資料だったのです。

だからこそ細部まで丁寧に描かれ、風景とともに人々の生活も反映されています。今でいうガイドブックのような役割を果たしていたともいえるでしょう。

デザイン性の高さが現代でも人気

広重の浮世絵は、現代のグラフィックデザインにも影響を与えています。構図のバランス、色の配置、線の美しさなど、視覚的に「心地よい」と感じる要素が満載です。

そのため、現代でもアートポスターやインテリア、商品デザインとして使われることが多く、若い世代からも支持を得ています。アートとしても実用としても、時代を超えた魅力があるのです。

教科書や博物館でよく取り上げられる

広重の作品は、小中学校の美術や歴史の教科書にも掲載されることが多く、教育の現場でも高く評価されています。また、国立博物館や地方の浮世絵館など、常設展示や特別展でも頻繁に紹介されています。

このことからも、広重が「日本文化を知るうえで欠かせない人物」として扱われていることが分かります。

海外でもコレクターが多数!

広重の浮世絵は、今や世界中にコレクターが存在しています。特にヨーロッパやアメリカでは、日本美術に魅了された人々が多く、広重の作品はオークションでも高値で取引されています。

また、美術館やギャラリーでの展示も盛んで、世界的に「ジャパニーズ・アートの象徴」として認識されています。日本人として誇りに思える文化遺産です。

歌川広重は何をした人?まとめ

歌川広重は、江戸時代に活躍した浮世絵師で、特に「東海道五十三次」や「名所江戸百景」などの風景画で知られています。彼の作品は、日本人の風景観に新たな視点をもたらし、浮世絵のジャンルを広げただけでなく、海外の芸術家たちにも多大な影響を与えました。

ゴッホやモネなど、西洋の巨匠たちも彼の構図や色彩に魅了され、自身の作品に取り入れたほど。まさに“世界が認めた日本人アーティスト”といえるでしょう。

さらに、広重の作品は視覚的にも美しく、現代のアートやデザインにも通じるセンスを感じさせます。江戸時代の風景が、今もなお人々の心を動かし続けているという事実は、広重の芸術がいかに普遍的であるかを証明しています。

彼の絵を通じて、ただ過去を知るだけでなく、今の私たちが「風景を見る目」や「日常の美しさ」に気づくきっかけにもなるでしょう。

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