「足利尊氏って、結局なにをした人なの?」
教科書に出てくるけど、なんだか難しそう…そんな人も多いのではないでしょうか。
この記事では、「足利尊氏 何をした人 簡単に」というキーワードに沿って、尊氏の生涯とその功績を中学生でも理解できるようにやさしく解説します。
鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇との対立、室町幕府の誕生まで——。
戦乱の時代を生き抜いた彼の選択と行動には、今の時代にも通じるリーダーシップや人間関係のヒントがたくさん詰まっています。
さあ、一緒に「足利尊氏の時代」をのぞいてみましょう。
室町幕府の創始者・足利尊氏とは?
鎌倉幕府を裏切ったって本当?
足利尊氏は、もともとは鎌倉幕府の有力な武士の一人でした。
源氏の名門である足利家に生まれ、将軍の家臣として幕府に仕えていました。
しかし、時代は変わり、幕府の政治が弱まり、人々の不満が高まっていました。
そんな中、後醍醐天皇が幕府を倒そうと計画し、倒幕運動が起きます。
尊氏は最初、この反乱を鎮めるため幕府側として出陣しました。
ところが、その途中で尊氏は突然、後醍醐天皇の側につき、鎌倉幕府に反旗を翻します。
これが「裏切り者」とされる理由です。
でも、この行動には「新しい時代をつくりたい」という理想や、幕府への不満もありました。
ただの裏切りではなく、時代の流れを見ての決断だったのです。
結果として、鎌倉幕府は滅び、日本は新しい時代へと進むことになります。
尊氏の行動は、日本の歴史を大きく変えた一歩だったのです。
後醍醐天皇との関係とは?
鎌倉幕府を倒した後、天皇中心の政治が始まります。
これが「建武の新政」と呼ばれる時代です。
後醍醐天皇は、武士の時代を終わらせて、再び天皇が国を治める時代を目指していました。
尊氏も最初はこの新しい政治に協力しました。
しかし、次第に不満がたまっていきます。
後醍醐天皇は貴族を重んじ、武士を軽んじる政策をとっていたからです。
戦で活躍した武士たちは、報酬や土地を期待していました。
けれども、それが十分に与えられず、武士たちの不満が高まります。
尊氏自身も、そんな武士たちの代表として、天皇の政治に反発するようになります。
こうして、尊氏と後醍醐天皇の関係は悪化し、ついには敵同士になってしまうのです。
この対立が、のちの「南北朝時代」へとつながっていきます。
なぜ「建武の新政」に反発したの?
建武の新政は、理想は高かったけれど、現実には多くの問題をかかえていました。
まず、武士たちへの恩賞が少なかったこと。
戦いで命がけで戦ったのに、見返りがなければ不満が出て当然です。
次に、政治の中心が貴族に戻ったこと。
武士の時代が100年以上続いてきた中で、突然の変化に多くの人が戸惑いました。
また、全国の土地の支配権をめぐって争いも増えました。
尊氏はこうした状況を見て、「このままでは国が乱れる」と感じていたのです。
武士の力を活かした新しい政治が必要だと考え、後醍醐天皇と対立する決意を固めました。
つまり、尊氏の反発は単なる反抗ではなく、国を安定させるための判断でもあったのです。
その結果、彼は後醍醐天皇と敵対し、新たな政権づくりに乗り出します。
尊氏と新たな武士の時代
後醍醐天皇との対立の末、尊氏は独自の政府を立ち上げます。
これがのちの「室町幕府」の始まりです。
京都に政庁を置き、武士による政治の時代が再び始まります。
鎌倉時代との違いは、幕府と朝廷が共存するような形をとったことです。
ただし、全国は一枚岩ではなく、南朝と北朝という二つの朝廷に分かれ、争いが続きました。
この時代を「南北朝時代」といいます。
尊氏は、戦の中で少しずつ勢力を広げ、次第に全国をまとめていきます。
その中で、彼は多くの武士を味方につけ、戦国時代につながる「武家社会」の土台を築いていきました。
室町幕府をつくるまでの流れ
尊氏が幕府を開くまでには、いくつもの戦いと苦労がありました。
1333年、鎌倉幕府が倒れた後、建武の新政が始まります。
しかし、わずか2年でそれに不満をもつ武士たちが反乱を起こし始めます。
尊氏はその中心人物として、京都を制圧します。
1336年には、自らの政権を開くために「光明天皇」を立て、後醍醐天皇と完全に決別します。
そして、1338年、正式に「征夷大将軍」に任命され、室町幕府が誕生します。
場所は京都の室町という地名にちなんで名付けられました。
こうして、足利尊氏は日本の新たな時代の扉を開くことになったのです。
南北朝時代と尊氏の苦悩
天皇が二人?南朝と北朝って何?
足利尊氏が室町幕府を開いた頃、日本には天皇が二人いました。
一人は京都にいる「北朝」の天皇。
もう一人は奈良県の吉野に移った「南朝」の天皇、つまり後醍醐天皇です。
なぜこんなことになったのでしょうか?
きっかけは、尊氏が後醍醐天皇に代わって、新たに「光明天皇」を即位させたことです。
尊氏にとって、後醍醐天皇は協力しにくい存在でした。
そのため、自分と考えが合う天皇を立てたのです。
しかし、後醍醐天皇は「自分こそが本物の天皇だ」として、南朝を樹立しました。
こうして、二人の天皇が同時に存在する「南北朝時代」が始まったのです。
この時代は約60年続き、全国各地で南朝と北朝の争いが絶えませんでした。
尊氏はこの争いに巻き込まれ、戦いと政治に苦しむことになります。
日本史の中でも特に混乱した時代の一つです。
尊氏の弟・直義との対立
足利尊氏には、優秀な弟・足利直義(ただよし)がいました。
直義は政治が得意で、尊氏を支える存在でしたが、次第に考えの違いが目立つようになります。
特に、戦い方や人材登用の方針などで意見がぶつかりました。
尊氏は戦で力を発揮するタイプ。
一方、直義は法律や統治の整備を重視するタイプでした。
一時は「尊氏=軍事」「直義=政治」という分担で上手くいっていました。
しかし、互いの部下たちの対立が深まり、ついには兄弟げんかが表面化します。
これを「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」と呼びます。
この争いは全国を巻き込むほどの内戦となり、尊氏にとっては非常に苦しい時期でした。
結局、直義は敗れ、謎の死を遂げます。
兄弟の対立は、尊氏自身の心にも大きな傷を残しました。
尊氏と足利直冬の関係
尊氏には、もう一人重要な人物との関係があります。
それが、息子の足利直冬(ただふゆ)です。
直冬は尊氏の庶子で、若いころは尊氏の弟・直義のもとで育ちました。
そのため、直義派の中心人物として活躍するようになります。
やがて、直冬と尊氏の関係も悪化していきます。
理由は、将軍の後継ぎ問題や、政治の方針の違いです。
直冬は中国地方で力を持ち、尊氏に反旗を翻すこともありました。
つまり、尊氏は息子とも争うことになってしまったのです。
このように、尊氏の人生は、外敵だけでなく、身内との戦いにも苦しめられたものだったのです。
その複雑な人間関係が、歴史をさらに難しく、そして面白くしています。
戦に次ぐ戦での国の混乱
南北朝時代の日本は、まさに「戦いの連続」でした。
南朝と北朝の対立、尊氏と弟の対立、さらには各地の武士同士の争いまで。
各地の豪族や武将たちは、自分たちの領地や力を守るため、たびたび戦を起こしました。
これにより、村や町は荒れ、民衆の暮らしはとても厳しいものになります。
税は増え、労働もきつくなり、人々の不満は募っていきました。
尊氏も、できるだけ争いを収めようと努力しましたが、なかなかうまくいきませんでした。
当時は「武力」がすべてを決める時代であり、力がなければ国はまとまらなかったのです。
尊氏の時代は、まさに「混乱から秩序をつくる」ための過渡期だったといえます。
この混乱の時代を乗り越えたことが、のちの安定した室町時代へとつながっていくのです。
尊氏が目指した「安定」とは?
足利尊氏が本当に望んでいたのは、「戦のない、安定した国」でした。
そのために、後醍醐天皇との決別、弟との争い、息子との対立をも経験しました。
尊氏は武士のための政治をつくることを目指していましたが、それは同時に民の平和も考えてのことでした。
しかし、あまりに多くの戦いが続き、なかなか安定を手に入れることはできませんでした。
それでも尊氏は、幕府という形で一つの秩序を築き上げました。
室町幕府はその後、約240年も続く政権となります。
これは、尊氏がつくった政治の枠組みが、後の時代にも通用するほどしっかりしていたという証でもあります。
「一人の武将が国のかたちを変えることができる」
尊氏の生き方は、それを歴史に刻んだものでした。
室町幕府のしくみと尊氏の功績
鎌倉幕府とどう違う?
室町幕府と鎌倉幕府は、どちらも武士が政治を行った政権です。
しかし、そのしくみや運営方法には違いがありました。
まず、鎌倉幕府は東国(関東)を中心にしていましたが、室町幕府は京都を中心に全国をまとめようとしました。
これは、尊氏が京都に幕府を置いたからです。
また、鎌倉幕府では「執権(しっけん)」が実際の権力を握っていました。
将軍は名前だけで、実際には北条氏が支配していたのです。
一方、室町幕府では将軍自身が政治の中心でした。
尊氏は「征夷大将軍」として、自らが武士の頂点に立ちました。
ただし、室町幕府には「守護大名」と呼ばれる地方の有力武士たちが多く存在し、中央の力が完全には及ばないこともありました。
このように、室町幕府は「中央と地方のバランス」が大事な政権だったのです。
武士の力が大きくなった理由
鎌倉時代から武士は力を持っていましたが、室町時代にはさらにその力が大きくなりました。
その理由は、まず「戦が多かったこと」です。
戦が多い時代では、戦える者、つまり武士が重宝されます。
さらに、土地を守ることが政治の中心だったため、土地を支配する武士の発言力が高まっていきました。
また、尊氏が建てた幕府は「恩賞」を重視しました。
戦で活躍した武士には土地や役職が与えられ、それによって忠誠を保ちました。
その結果、各地の武士たちは、将軍ではなく自分たちの主君である「守護大名」に従うようになっていきます。
これは、後の戦国時代への流れにもつながっていきました。
つまり、尊氏の時代は、武士が本格的に政治の中心となる時代の始まりだったのです。
将軍って何をする人?
将軍とは、正式には「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」といいます。
本来は、東北の「蝦夷(えみし)」と呼ばれる人々を征伐するための軍の総大将でした。
しかし、時代が進むにつれて、実際には日本全国の武士をまとめるリーダーという役割になっていきます。
室町時代の将軍は、政治、軍事、人事、外交などを担当しました。
つまり、国のトップとして、すべての決定権を持っていたのです。
足利尊氏は、その初代将軍として新たなしくみを作りました。
例えば、「守護」や「地頭」などの役職を通じて全国の統治を行い、また朝廷との関係も調整していました。
将軍は単に強いだけでなく、「調整力」や「人望」も求められる存在だったのです。
尊氏はこの難しい役割をこなしながら、室町時代の礎を築いた人物といえます。
足利家が長く続いたわけ
足利尊氏が開いた室町幕府は、その後15代将軍まで続きました。
その理由の一つは、「血縁を重視した制度」があったことです。
将軍の座は基本的に長男や近い親族に継がれ、足利家の中で権力が受け継がれました。
また、尊氏が全国の有力武士を味方につけるため、うまく人事を行ったことも大きな要因です。
守護大名たちは自分の領地をある程度自由に治めることができたため、幕府に従う意味がありました。
つまり、足利将軍家は「ゆるやかな連携」を保ちながら長く続いたのです。
もちろん、時代が進むと将軍の力が弱まり、戦国時代へとつながっていきますが、尊氏の築いた体制がその基礎を支えていました。
足利家が240年以上も政権を保ったという事実は、尊氏の政治力と先見の明を示しています。
尊氏が残した「しくみ」の意義
足利尊氏が残した最大の功績は、武士による新しい政治のしくみを築いたことです。
その中には、守護や地頭による地方支配、恩賞による人材管理、朝廷との共存体制など、現代の行政にもつながる要素が多くあります。
特に、「中央と地方の役割分担」は、現在の日本の政治制度にも通じる部分があります。
また、尊氏はただ力で国を支配するのではなく、「バランス」を重んじる政治を目指しました。
この考え方は、後の歴代将軍や大名にも影響を与えました。
戦乱の中で秩序を作り出すというのは、簡単なことではありません。
尊氏がその中で築いた制度は、日本史においてとても重要な意味を持つのです。
なぜ今でも足利尊氏は注目されるのか
評価が分かれる歴史人物
足利尊氏は、日本史上でも特に評価が分かれる人物の一人です。
ある人は「裏切り者」と呼びます。
鎌倉幕府を倒したあと、協力していた後醍醐天皇とも争ったからです。
また、弟や息子と戦うことになったため、「身内さえも敵に回す冷酷な人物」と見る人もいます。
一方で、尊氏を「時代の転換点をつくった偉大な人物」と評価する声もあります。
戦乱の世に秩序をもたらし、約240年も続く室町幕府の基礎を築いたのです。
また、武士の時代を次のステージへ進めた存在でもあります。
このように、尊氏の評価は「善か悪か」だけでは語れない複雑さを持っています。
だからこそ、歴史の授業や書籍、大河ドラマなどでも取り上げられ続けているのです。
人によって見方が違うからこそ、学ぶ価値があるのです。
「裏切り者」と「時代の立役者」
尊氏は歴史の中で、「裏切り者」と「立役者」という2つの顔を持っています。
鎌倉幕府を裏切り、後醍醐天皇に味方した。
その後、今度は後醍醐天皇を裏切り、自分の政権を築いた。
こうした行動は「裏切り」と見られがちです。
しかし、当時の日本は、混乱と戦乱の中にありました。
武士たちは報酬や安定を求めており、それを叶えられない政治には従えなかったのです。
尊氏は、そんな時代の流れを読んで行動したといえます。
つまり、裏切りではなく「時代に合わせた決断」だったとも考えられます。
その決断がなければ、日本の政治はさらに混乱していたかもしれません。
尊氏の行動には、良い面も悪い面もありますが、それが彼の魅力でもあるのです。
大河ドラマや教科書での登場
足利尊氏は、NHK大河ドラマにも何度も登場しています。
特に2022年の『鎌倉殿の13人』では、最終話で登場し話題になりました。
また、歴史の教科書でも必ず登場する重要人物です。
尊氏は「鎌倉幕府を倒した人物」「室町幕府をつくった人物」として紹介されることが多いですが、その背景や苦悩まではあまり触れられません。
しかし、最近では彼の「人間としての姿」や「時代に翻弄された生涯」に注目が集まっています。
ドラマや書籍を通じて、尊氏の本当の姿を知る人が増えてきました。
こうした現代的な視点からの再評価が進むことで、尊氏はますます注目される存在となっています。
尊氏の人物像とその魅力
足利尊氏の魅力は、その「人間らしさ」にあります。
彼は強い将軍である一方、弟や息子との対立に苦しんだり、自分の理想と現実の間で悩んだりしました。
戦いに勝ちながらも、心に深い葛藤を抱えていたのです。
また、彼は一方的に権力をふるうタイプではなく、協調や調整を大切にした人物でした。
そのため、敵味方問わず、多くの人に慕われる一面もありました。
「強さ」と「弱さ」が同居する尊氏の姿は、多くの人の共感を呼びます。
現代のリーダーにも通じるような人間性を持っていたともいえるでしょう。
だからこそ、今の時代においても「尊氏に学びたい」と思う人がいるのです。
尊氏から学べること
足利尊氏の生涯から学べることはたくさんあります。
まず、「決断する勇気」です。
彼は時代の流れを読み、誰もが恐れるような行動を選びました。
それは結果的に、多くの人を救う方向につながったのです。
次に、「人との関係の難しさ」。
尊氏は弟や息子と争うことになりましたが、それもまた歴史の一部。
家族でも意見が違えば争うこともある。
それをどう乗り越えるかが大切だと教えてくれます。
最後に、「失敗しても前に進む姿勢」。
尊氏の時代は混乱続きで、思うようにいかないことばかりでした。
それでも諦めず、自分の信じる道を貫きました。
私たちも日々の生活や仕事でうまくいかないことがあります。
そんなとき、尊氏の姿を思い出せば、少し勇気が出るかもしれません。
足利尊氏は何をした人か?まとめ
足利尊氏は、日本の歴史の中でも特に複雑で、多面的な人物です。
彼は鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇と協力したかと思えば、後にはその天皇とも対立し、独自の政権を築きました。
その過程では、弟や息子との激しい対立、全国を巻き込む戦乱、そして政治の混乱といった数々の困難がありました。
それでも尊氏は、室町幕府という新たな時代の枠組みをつくり上げ、日本の政治の形を大きく変えました。
尊氏の行動は一見「裏切り」にも見えますが、その背景には、時代を安定させたいという強い意志と、武士や民衆の生活を守りたいという願いがありました。
彼の政治手法やリーダーシップ、そして苦悩と葛藤からは、現代を生きる私たちにも多くの学びがあります。
「ただの戦国武将」ではなく、「時代をつくった人間」として、尊氏の人生を見つめ直すことは、歴史の理解を深めるだけでなく、今を生きるヒントにもなるのです。