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足利義満は何をした人なのか一言でスッキリ解説 功績まとめ

「足利義満って誰?何をした人なの?」

歴史の授業で名前は聞いたことがあっても、詳しいことはあまり知られていない人物かもしれません。

でも実は、義満は日本の歴史を大きく動かした超重要人物なんです。

この記事では、中学生でも分かるように、義満の人生と功績をカンタンに解説していきます。

5つのポイントで、足利義満のすごさをサクッと理解していきましょう!

目次

足利義満ってどんな人?簡単に人物像を紹介

室町幕府の第3代将軍に就任

足利義満(あしかが よしみつ)は、室町幕府の第3代将軍です。
将軍に就任したのはわずか10歳のとき。
まだ幼かった義満を支えたのは、管領(かんれい)と呼ばれる側近たちでした。

義満が将軍になったころの日本は、まだ安定していませんでした。
前の将軍である父・義詮(よしあきら)が亡くなった後、将軍家を中心とした権力争いも続いていました。
そんな中、義満は将軍として着実に力をつけていきました。

彼は「将軍の中の将軍」とも言われるほど、強いリーダーシップを持ち、政治だけでなく外交・文化の分野にも影響を与えました。

政治だけでなく文化面でも大活躍

義満の最大の特徴は、政治だけでなく文化面でも活躍したことです。
能楽(のうがく)を保護し、貴族文化と武家文化をうまく融合させました。

さらに、金閣寺を建てるなど、芸術への理解も深かったのです。
「北山文化」と呼ばれるこの時代の文化は、まさに義満によって花開いたと言えます。

当時の将軍の中でも、これほど文化に力を入れた人物はめずらしく、多方面での業績は今も高く評価されています。

幼少期から将軍への道が決まっていた

義満は1358年に京都で生まれました。
父・足利義詮は第2代将軍で、義満は将軍家の嫡男(ちゃくなん)として育てられます。

まだ幼いころから、将軍になることを前提に教育されていました。
そして10歳という異例の若さで将軍に就任します。

当時の日本では、幼くして政治のトップに立つことも珍しくありませんでしたが、それをしっかりこなした義満の資質は特別だったと言えるでしょう。

後円融天皇との関係とその影響

義満の将軍時代は、天皇家との関係が大きなポイントになります。
当時の天皇は後円融(ごえんゆう)天皇。

義満はこの天皇と緊密な関係を築き、のちに「天皇以上の存在」とまで言われるほどの権力を持つようになります。

その一方で、義満が天皇をしのぐ存在になることへの反発もありました。
のちに義満が出家した後も、彼の影響力は続き、天皇の存在感が相対的に弱くなったとも言われます。

出家しても権力は握り続けた

1394年、義満は将軍の座を息子の義持に譲ります。
しかし、それで政治から完全に引退したわけではありません。

彼は「太政大臣」にも任命され、形式的には出家しながらも実権を握り続けました。
義満は政治の中心に居続けたのです。

これは、武士でありながら貴族社会にも深く関わる独自の立ち位置を築いたことを示しています。

南北朝の統一を実現!義満の最大の功績とは

南朝と北朝の分裂とは?

義満が活躍した時代、日本は「南北朝時代」と呼ばれる混乱期でした。
これは天皇が二人いた時代で、京都にいた「北朝」と奈良の吉野にいた「南朝」が対立していたのです。

この分裂は、足利尊氏が天皇を追い出して自分の都合の良い天皇を立てたことが原因でした。
約60年もの間、二つの天皇家が存在するという異常な状態が続いていたのです。

和平交渉を進めた義満の手腕

義満はこの対立を終わらせるために、外交的な手腕を発揮しました。
力づくで南朝を倒すのではなく、話し合いによって和平を進めたのです。

一時は戦いもありましたが、義満は双方の意見をうまく調整していきました。

1392年、ついに南北朝が統一

そしてついに1392年、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位する形で、南北朝は統一されます。
この出来事は「明徳の和約(めいとくのわやく)」と呼ばれ、日本史に残る大きな転換点でした。

この和平により、長年の争いは終わり、国内の安定がもたらされました。
これは義満の最も大きな功績の一つです。

義満の和平策とその舞台裏

和平交渉は一筋縄ではいきませんでした。
南朝側には強硬派もいて、簡単には譲歩しなかったからです。

しかし義満は、武力のバランスや経済力を背景に南朝に妥協を促し、最終的には平和的な統一を実現しました。

彼の交渉力と調整力の高さがここで発揮されたのです。

統一後の政治的影響

南北朝の統一によって、室町幕府の権威は一段と高まりました。
それまでは「足利将軍は勝手に北朝を立てただけ」という批判がありましたが、南朝の合流により名実ともに正当な政権となったのです。

これにより、義満の影響力はさらに強まり、後の政治も安定に向かって進んでいきます。

日明貿易をスタート!海外とも交流した将軍

明との国交再開の背景

当時の中国は「明(みん)」という王朝でした。
義満が将軍になる以前、日本は倭寇(わこう)と呼ばれる海賊のせいで、明との国交が途絶えていました。

倭寇は日本を拠点にして中国や朝鮮を襲っていたため、明は日本に対して警戒心を強めていたのです。
そのため、正式な国交は断絶され、貿易も行われていませんでした。

義満はこの状態を変えるため、まず倭寇を取り締まるなど、明に対して誠意ある対応を取りました。
これが明との関係改善の第一歩となりました。

「日本国王」と呼ばれた理由

義満は明の皇帝と正式に文書を交わし、国交を再開しました。
その際、明からの文書には義満のことを「日本国王」と記してありました。

これは、義満が明の皇帝に臣下のような立場で通商を申し込んだことを意味しています。
一見すると日本の独立を損なうように思えますが、当時の国際関係ではこの形式が通例だったのです。

義満自身もこの称号を受け入れ、日本の経済と外交の利益を優先しました。
その柔軟さが当時の日本に大きな恩恵をもたらすことになります。

倭寇問題の対処と信頼回復

明との国交を結ぶには、まず倭寇の問題を解決する必要がありました。
義満は国内の海賊勢力を取り締まり、また貿易に関する管理制度も整備しました。

これにより、明は日本を「信頼できる国家」として再評価するようになりました。
義満の外交手腕が、まさに試された場面でした。

勘合貿易の仕組みと成果

義満が始めた貿易は「勘合貿易(かんごうぼうえき)」と呼ばれます。
これは明から発行された「勘合符(かんごうふ)」という証明書を持った船だけが、正式な貿易船として認められる制度です。

この制度により、倭寇と正式な日本の貿易船を区別できるようになりました。
義満の勘合貿易は、絹や陶磁器などの高級品が日本にもたらされるなど、日本の経済に大きな影響を与えました。

日本経済への影響とは?

勘合貿易の成功によって、日本国内では輸入品が広まり、特に京都を中心とした商業活動が活発になりました。
また、貿易の利益が幕府や有力な大名たちに分配され、政権の財政基盤も安定しました。

義満の外交政策は、単なる対外関係の改善にとどまらず、日本の経済や政治の安定にも大きく貢献したのです。

金閣寺を建てた男、その真の狙いとは

金閣寺の建設背景

足利義満は1397年、京都の北山に「鹿苑寺(金閣寺)」を建立しました。
元は西園寺家の別荘だった場所を買い取り、自身の隠居所として再建したのです。

この金閣寺はただの別荘ではなく、義満の権威を示すための象徴でもありました。
政治的にも文化的にも意味のある建築でした。

北山文化の象徴的存在

金閣寺は「北山文化」の代表とされています。
北山文化とは、武家文化と公家文化が融合した新しいスタイルの文化です。

金閣寺の建築は、中国の宋・元の影響を受けつつ、日本的な美意識を取り入れた独特なデザインとなっています。

また、庭園や建築の配置にも宗教的・思想的な意味が込められており、まさに芸術の結晶とも言える建物です。

建築様式に込められた権威アピール

金閣寺の最大の特徴は、2階と3階が金箔で覆われていることです。
これは当時としては異例の豪華さで、義満の財力と権威を強く印象づけました。

将軍がこれほどの建築を私的に建てられるという事実は、民衆や貴族、武士たちに対して大きなインパクトを与えました。
義満はこの金閣寺を通して「自分がただの将軍ではない」というメッセージを発していたのです。

なぜ金箔を使ったのか?

金箔を使うことで、見る者に圧倒的な印象を与えることができます。
また、金は仏教でも「浄土(じょうど)」の象徴とされ、極楽の世界を表す色でもあります。

義満が出家していたこともあり、金閣寺には宗教的な意味合いも込められていました。
ただの見せびらかしではなく、自身の精神世界と権力の象徴としての意味が込められていたのです。

今に伝わる文化的価値

金閣寺は現在も京都の観光名所として多くの人に親しまれています。
1950年に一度焼失しましたが、1955年に再建され、今もその美しさを伝えています。

金閣寺は、ただの建物ではなく、日本文化の象徴であり、義満の残した最大の遺産の一つといえます。

義満の死とその後の影響―天皇以上と恐れられた男の最期

晩年の義満の権力拡大

義満は将軍職を息子に譲った後も、政治の実権を握り続けていました。
さらに太政大臣にも任じられ、公家社会にも強い影響力を持つようになります。

武士のトップでありながら、公家の最高位にも就いたことで、義満の権力は天皇をもしのぐほどになっていました。
そのため「天皇以上」とまで言われる存在となったのです。

「天皇以上」とされた存在感

義満は「日本国王」という称号を明から受け入れただけでなく、天皇のような格式のある儀式も行いました。
これには天皇家の側からも不満や不安の声が上がりました。

一部では、義満が天皇になろうとしていたのではないかという説もあります。
実際にその意志があったかどうかは不明ですが、それほどの影響力を持っていたことは確かです。

突然の死とその謎

義満は1408年、51歳で急死します。
病気による死とされていますが、詳しい記録が少なく、今も謎が残る部分もあります。

あまりにも急な死であったため、当時の人々の間ではさまざまな憶測が飛び交いました。
陰謀説や毒殺説などもささやかれましたが、真相は不明です。

義持との確執と権力継承

義満の死後、息子の足利義持(よしもち)が実権を引き継ぎます。
しかし義持は、義満ほどのカリスマ性もなく、また父の強引な政策を嫌っていたとも言われています。

特に、明との「日本国王」関係を断ち切ったのは義持でした。
これは父のやり方を否定した形でもあり、親子間の政治的な温度差があったことを示しています。

義満の死が残した影響とは

義満の死によって、室町幕府の権威は一時的に揺らぎます。
彼のカリスマ的な統治が幕を閉じたことで、後継者たちは彼ほどの統率力を持てなかったからです。

しかし、義満が残した制度や文化、外交の成果は、その後の日本にも大きな影響を与え続けました。
まさに「天皇以上」と言われた男にふさわしい歴史的な存在だったのです。

足利義満とは何をした人だったのか?まとめ

足利義満は、室町幕府の第3代将軍として、政治・外交・文化のすべてにおいて大きな功績を残しました。

南北朝の統一という歴史的快挙を成し遂げ、国内の混乱を鎮めました。
日明貿易を開始し、日本を国際的に通商国家へと導きました。
金閣寺を築くことで、日本文化の象徴を後世に伝えました。

そして出家後も実権を握り続け、「天皇以上」と恐れられるほどの権力を持った義満。
その人生は、まさに中世日本を動かしたカリスマそのものでした。

「足利義満 何をした人 簡単に」という疑問には、
「日本をひとつにまとめ、外交と文化を発展させたスーパー将軍」と答えるのがぴったりかもしれません。

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