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森鴎外とは何をした人か?すごさをやさしく解説!代表作から晩年まで

「森鴎外って、何をした人なの?」

教科書では名前を見たことあるけど、具体的に何をした人なのかよく分からない。

そんな疑問を持つ人は多いのではないでしょうか?

実は、森鴎外はただの作家ではありません。

医師、軍人、そして思想家として、明治から大正という日本の転換期を支えた重要人物なんです。

この記事では、そんな森鴎外の人生と功績を、簡単かつわかりやすく解説していきます。

彼の生き方や作品を知ることで、今の時代にも通じる深い学びが得られるはずです。

目次

鴎外の生い立ちと家族背景

島根県津和野に生まれた名門の子

森鴎外は1862年、現在の島根県津和野町に生まれました。

本名は森林太郎(もり りんたろう)です。

津和野は小さな城下町でしたが、学問の盛んな土地柄でもありました。

鴎外の家系は代々、藩の医者を務めており、いわゆる「名家」でした。

そのため、幼いころから学問への期待が強く、自然と勉学の道へ進むことになります。

家には多くの漢籍や書物があり、子どもながらに中国古典や漢詩に親しんでいたそうです。

特に父・森静男は非常に厳格で、幼少期から徹底した教育を施しました。

母親は優しく見守る存在で、鴎外の心の支えとなっていたようです。

幼い鴎外は非常に利発で、地元の教師からも「神童」と呼ばれていたと記録に残っています。

幼少期から秀才ぶりを発揮

鴎外は小学校に入る前から読み書きをマスターし、漢文をすらすら読めたといわれています。

特に語学に優れ、ドイツ語や英語の習得も早かったのが後の留学成功につながります。

10代前半で既に大人と同じように議論ができるほどの知識を持っていました。

その才能により、周囲からは「大物になるだろう」と将来を嘱望されていました。

こうした環境が、彼の自信と誇り、そして独立心を育てたのです。

自分の信念を貫く姿勢はこのころからすでに形成されていたようです。

幼くして上京、東京大学医学部へ

森鴎外はわずか13歳で上京します。

そして、15歳で東京大学予備門に入学し、その後、東京大学医学部に進みます。

このとき、なんと17歳。

当時の最高学府に現役で進学するだけでもすごいことですが、さらに鴎外は成績もトップクラス。

医学部では特に衛生学や病理学を得意とし、ドイツ語の文献もすらすら読めたため、教授たちも一目置いていた存在でした。

20歳で東京大学医学部を卒業し、史上最年少の医学士となります。

この若さで医師免許を持ち、国家の中枢で働けるようになったのです。

名を「鴎外」とした由来

「鴎外」というペンネームは、自由に空を飛ぶカモメ(鴎)から取られています。

「外」は外界や常識の枠を超えるという意味を込めていました。

つまり、「世間のしがらみに縛られず、自分の思考で自由に生きたい」という強い意志の表れです。

この名前には、医師でありながら文学を志す自分への決意もこめられていました。

学者であり、軍人であり、作家でもある彼の人生を象徴するような名乗りです。

家族との関係、特に弟や子どもたち

森鴎外には弟・森成麟(もり せいりん)がおり、こちらも医師として活躍しました。

兄弟は非常に仲が良く、学問的な刺激を与え合う関係だったといいます。

また、鴎外の子どもたちも優秀で、長男の森於菟(おと)は医学者、次男の森不律(ふりつ)は建築家、娘の杏奴(あんぬ)はエッセイストとして知られています。

森家は代々、知性と文化の家系として続きました。

家族思いでありながらも、あくまで「個人としての自由」を重視した鴎外の姿勢が、次世代にも影響を与えたのです。

医師・軍医としてのキャリアと功績

東京大学医学部を最年少で卒業

森鴎外は20歳という若さで東京大学医学部を卒業しました。

明治時代の日本では、医学は国家戦略における重要分野。

そのため、卒業と同時に政府からも期待が寄せられ、すぐに陸軍省に採用されました。

当時の日本は、西洋医学を本格的に取り入れようとしていた時期であり、優秀な人材が求められていたのです。

鴎外はその期待に応えるように、学術的にも実務的にも高い成果をあげていきました。

陸軍軍医としてドイツへ留学

23歳のとき、ドイツへの留学が決まります。

当時、ドイツは医学の最先端を走る国でした。

ベルリン大学で衛生学、細菌学を学び、現地ではヨーロッパの医師たちと交流を持ちました。

語学力の高さと知識の深さで、現地でも一目置かれる存在だったと言われています。

この留学経験が、のちに日本の公衆衛生や軍医学に大きく貢献することになります。

日本の近代医学に与えた影響

帰国後、鴎外は衛生学や細菌学の最新知識を日本に持ち帰りました。

それまで日本では十分に整備されていなかった公衆衛生の分野において、ドイツ式の最新の手法を導入します。

とくに飲料水の衛生管理や伝染病予防の考え方などは、鴎外の指導により飛躍的に改善されました。

また、日本語の医学用語を整理し、西洋の概念を正しく翻訳するという作業にも力を入れました。

戦場での活動と功績

鴎外は日清戦争・日露戦争にも従軍しています。

戦場では医師として負傷兵の治療だけでなく、衛生環境の整備や感染症対策にも携わりました。

特にコレラや赤痢など、戦時下で蔓延しやすい病気の防止策を講じた功績は大きいです。

戦地での冷静な判断力と、迅速な対応が高く評価され、軍内での信頼も厚くなりました。

軍医総監にまで登り詰めた理由

鴎外はついに軍医のトップである「軍医総監」に就任します。

これは、単に医師として優れていたからだけでなく、組織全体を見渡せる指導力が評価された結果です。

また、西洋の知識をただ導入するのではなく、日本の風土にあった形で応用できる応用力もあったことが、彼の強みでした。

このように、森鴎外は単なる文学者ではなく、日本の近代医学を支えた第一人者でもあったのです。

文学者としての代表作とその特徴

小説『舞姫』の衝撃と評価

森鴎外が文学界に衝撃を与えた最初の作品は、1890年に発表された『舞姫』です。

これは、ドイツ留学中の青年が、現地の女性エリスとの恋愛と別れを描いた小説です。

当時の日本文学にはなかった心理描写の深さや、西洋と日本の文化の葛藤を描いた点が話題となりました。

また、物語の背景にある「出世のために愛を捨てる」というテーマは、読者に強い印象を与えました。

この作品は事実上、鴎外の留学経験をもとに書かれており、主人公の姿には鴎外自身が投影されています。

『舞姫』は、日本における近代文学の幕開けを告げる重要な作品として位置づけられています。

『雁』『高瀬舟』など社会派作品

鴎外はその後、『雁』や『高瀬舟』といった名作を次々と発表します。

『雁』は、明治時代の東京を舞台に、芸者と医学生の心の通い合いを描いた作品。

一方、『高瀬舟』は、罪人とその護送役の対話を通して、「命の尊厳」や「安楽死」という哲学的テーマを掘り下げています。

これらの作品には、鴎外の医師としての視点や、人間の内面を観察する目が活かされています。

単なるストーリーではなく、「生きるとは何か」「正しさとは何か」という問いかけが読者に投げかけられているのです。

翻訳家・評論家としての一面

鴎外は創作活動だけでなく、ドイツ文学や哲学書の翻訳にも力を注ぎました。

特にゲーテやシラー、ニーチェなど、ドイツの思想家たちの考えを日本に紹介したことは大きな功績です。

また、文学や芸術に関する評論も多く発表し、日本の文化のあり方について積極的に発言しました。

その文章は非常に論理的でありながら、感性も豊かで、読む人の心に強く響く内容でした。

このように、鴎外は単なる「小説家」ではなく、総合的な文化人として活動していたのです。

森鴎外と夏目漱石の違い

森鴎外としばしば比較される人物に、夏目漱石がいます。

どちらも明治を代表する文豪ですが、その作風や人生観には大きな違いがあります。

漱石は、人間の内面や社会とのズレに焦点を当てた心理小説を得意としました。

一方、鴎外は社会の制度や文化との葛藤、個人の理想と現実のはざまにある苦悩を描くことが多いです。

また、漱石は学校教育の現場から出発し、大学教授から文筆家へと転じましたが、鴎外は医師としての実務経験が基礎にあります。

そのため、文章にも「現実を見つめる冷静な視点」がにじんでいるのです。

「歴史小説家」への転身とその意味

鴎外は晩年になると、歴史を題材にした小説を多く書くようになります。

『阿部一族』『山椒大夫』『渋江抽斎』などが代表作です。

これらの作品では、歴史上の人物を通して、国家と個人の関係、忠義と信念のあり方を問うています。

特に『阿部一族』では、武士道を貫いた家族の悲劇を描き、「国家の名のもとに人は死ぬべきか」という重いテーマを提起しています。

このように、鴎外は歴史のなかに現代にも通じる課題を見つけ出し、読者に問いかけるスタイルへと変化していきました。

それは単なる過去の物語ではなく、「いま」を考えるための鏡だったのです。

社会・政治に与えた影響と時代背景

明治という激動の時代との関わり

森鴎外が生きた明治時代は、日本が西洋化と近代化を急速に進めていた時期です。

鎖国を解き、文明開化が叫ばれ、古い価値観が次々と壊されていきました。

そんな時代の中で、鴎外は「日本らしさとは何か」「近代とは何か」を常に考え続けていました。

ドイツ留学で西洋の合理主義に触れつつも、日本の伝統や美意識を大切にしていたのです。

彼の作品には、そうした時代の矛盾や苦悩が色濃く反映されています。

まさに、「時代を生きる知識人」としての葛藤が感じられるのです。

軍と文壇の両立の難しさ

鴎外は陸軍の軍医という国家公務員の立場にありながら、文壇の第一線でも活躍していました。

これは、当時としては非常に珍しく、かつ困難なことでした。

なぜなら、軍の規律と文芸の自由は相反するものだからです。

ときには作品の内容が問題視され、上司から注意を受けることもありました。

それでも鴎外は「表現の自由」を守るために、時には筆を抑え、時には戦う覚悟を持っていました。

このように、彼の文学は常に「国家」と「個人」の間で揺れていたのです。

検閲や言論統制との葛藤

明治政府は、国家を安定させるために言論統制を行っていました。

新聞や文学作品に対しても検閲が行われ、政府に批判的な内容は発表できませんでした。

鴎外も、何度か作品が検閲に引っかかることがありました。

そのたびに、彼は「どこまで表現すべきか」「どこまで沈黙すべきか」を悩んでいたのです。

『ヰタ・セクスアリス』という小説では、性についての自由な表現が問題となり、発禁処分を受けています。

このような体験からも、鴎外が「表現の自由」について深く考えていたことがわかります。

文学と国家との距離感を模索

森鴎外の人生は、文学と国家の関係を問い続ける旅でもありました。

彼は国家に仕える軍人でありながら、国家の持つ暴力性や理不尽さを批判的に描いています。

特に歴史小説では、国家の命令に従った結果としての悲劇を丁寧に描いています。

これは、国家に忠誠を誓う一方で、その中で苦しむ人間の姿を見つめていた証です。

その姿勢は、まさに「中立の視点を持つ知識人」と言えるでしょう。

最後まで貫いた信念と晩年の姿

晩年の歴史小説とその意義

森鴎外は晩年に入ると、小説のスタイルを大きく変えます。
それまでは恋愛や社会問題を扱っていましたが、やがて歴史を題材にした作品へと移っていきました。

その理由のひとつは、明治から大正にかけての日本社会が大きく変化していたからです。
鴎外はその流れの中で、「今」という時代を語るために「過去」に目を向ける必要があると考えました。

歴史小説は単なる過去の物語ではありません。
鴎外は、歴史を通して人間の普遍的な苦悩や道徳、そして信念を描こうとしたのです。

特に、国家や制度の中で生きる個人がどのように振る舞うべきかというテーマは、鴎外作品に一貫して存在しています。
その集大成が『渋江抽斎』や『阿部一族』に見られるのです。

死生観と『阿部一族』の衝撃

『阿部一族』は、ある武士の家族が主君の死に殉じようとする話です。
この作品では、忠義を果たすことが名誉とされる時代において、家族がどのような運命をたどるのかがリアルに描かれています。

しかし、鴎外はこの「忠義」を単なる美徳として描いていません。
むしろ、制度に縛られた個人の悲劇として冷静に見つめているのです。

この作品を通して、鴎外は「人間は何のために生きるのか」「何を信じて死ぬのか」といった根本的な問いを投げかけています。
その思想は、軍医として多くの死を見てきた彼ならではの視点でもありました。

読者にとっては、「信念」と「制度」のぶつかり合いが強く印象に残る作品です。

死に際しての「戒名拒否」とは?

森鴎外は1922年に60歳で亡くなりました。
死に際して彼が残した言葉の中に、「戒名はつけないでほしい」というものがあります。

戒名とは、仏教において死者につけられる名前ですが、鴎外はそれを拒否しました。
その理由は明確に語られてはいませんが、「自分は死後も“森鴎外”としてありたい」「形式や儀礼に縛られたくない」という考えが背景にあったとされています。

この決断は、当時としては非常に異例でした。
しかし、それはまさに鴎外らしい「最後まで自分を貫く姿勢」の象徴といえるでしょう。

形式ではなく、思想を重んじた彼の姿勢は、現代の人々にも深いメッセージを投げかけています。

家族に遺した言葉と手紙

鴎外は家族思いの人物でもあり、晩年には多くの手紙を残しています。
特に子どもたちに向けた手紙には、教育に対する考えや人生のアドバイスが綴られています。

たとえば、長男の於菟には「自分の道を信じて進め」「形式や権威に振り回されるな」といった言葉を送っています。
また、娘の杏奴には「女性も学問や表現の自由を持つべきだ」と記していました。

こうしたメッセージからは、当時としては非常に先進的で、人間の尊厳や自由を重んじる鴎外の考え方が読み取れます。

彼の言葉は、今でも多くの人に影響を与え続けているのです。

現代へのメッセージとしての鴎外

森鴎外は、医師、軍人、作家という3つの顔を持ちながら、常に「人間とは何か」という問いに向き合ってきました。
彼の作品や思想には、今を生きる私たちにも通じるメッセージが詰まっています。

たとえば、自分の信念を貫くことの大切さ。
あるいは、制度や社会の中で生きながら、個人としてどうありたいかを考える視点。

さらに、教育や表現の自由についての彼の考えは、現代の民主主義や人権意識とも深くつながります。

だからこそ、100年以上経った今でも、鴎外の作品は多くの人に読み継がれています。
そして、「森鴎外は何をした人か?」という問いには、こう答えられるでしょう。

「人間とは何か」を考え続けた知の巨人だった、と。

森鴎外とは何をした人か?まとめ

森鴎外は、明治から大正という激動の時代を生きた、医師であり軍人であり、そして文学者でもある人物でした。
彼はただ文章を書いただけの作家ではなく、日本の近代化に大きく貢献した実務家であり、思想家でもありました。

医療の分野では、日本の公衆衛生や軍医学の発展に大きな役割を果たしました。
文学では、個人と社会、制度と信念のぶつかり合いを描き、私たちに深い問いを投げかけています。

さらに、その生き方は「国家に仕えながらも、自分の考えを持ち続ける」という一貫した信念に支えられていました。

森鴎外という人は、決して一言では言い表せない複雑な存在です。
だからこそ、今もなお多くの人が彼の作品を読み、彼の人生から学ぼうとしています。

「森鴎外って何をした人?」と聞かれたら、
こう答えましょう。

「人と社会の在り方を、命をかけて問い続けた人」と。

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