吉田兼好と聞いて、あなたはどんな人を思い浮かべますか?
「徒然草を書いた人」「昔の偉人」…そんなイメージかもしれません。
でも実は、吉田兼好の考え方や言葉は、私たちの現代の生活にも通じるヒントがたくさん詰まっています。
この記事では、そんな兼好の人物像や『徒然草』の魅力を、わかりやすく簡単にご紹介します。
少し立ち止まって、自分の暮らしや考え方を見つめ直してみたい方に、ぜひ読んでほしい内容です。
吉田兼好とは?簡単にプロフィール紹介
室町時代初期の人物だった
吉田兼好(よしだけんこう)は、今からおよそ700年前、室町時代のはじめに生きた人物です。
生まれたのは鎌倉時代の終わりごろで、時代が変わる激動の中を生きていました。
当時は、武士の力が強くなり、貴族たちの生活も大きく変わっていった時代です。
そんな中で吉田兼好は、文化や教養を大切にする暮らしをしていました。
彼は政治家でも武士でもありません。
しかし、当時の人々の考えや暮らし方に深い影響を与えた人物でした。
書いた文章や言葉が後の人たちに長く読みつがれ、今でも国語の教科書に登場するほどです。
「徒然草(つれづれぐさ)」という本を通して、私たちは彼の考えや生き方を知ることができます。
つまり吉田兼好は、言葉と思想の力で、何百年も人々に感動を与え続けている人なのです。
本名は「卜部兼好(うらべのかねよし)」だった
吉田兼好は「兼好法師(けんこうほうし)」として知られていますが、本名は「卜部兼好(うらべのかねよし)」です。
「卜部(うらべ)」というのは古い貴族の家柄で、神道に関わる家系でした。
吉田という名前は、後に仕えた吉田家という神官の家から取ったと考えられています。
つまり、もともとの名字と、後から使われた名前が混ざって「吉田兼好」という名前で知られるようになったのです。
これは、当時ではわりと普通のことでした。
出家したあとには名前が変わることも多く、僧としての名前を「法師」と呼ぶのが習わしです。
兼好も出家して「法師」となったので、「兼好法師」と呼ばれるようになりました。
現代の私たちが「吉田兼好」と覚えているのは、彼の名前が複数の意味を持っていたからです。
こうした名前の変化を見ると、当時の文化や身分制度の特徴がよくわかりますね。
公家から出家して「兼好法師」になった
吉田兼好は、もともと朝廷に仕える「公家(くげ)」という高い身分の家に生まれました。
しかし、ある時期からその地位を捨てて、仏教の道へと進みました。
つまり、出家して「僧侶(そうりょ)」のような立場になったのです。
そのときの名前が「兼好法師」です。
ではなぜ、出家したのでしょうか?
詳しい理由ははっきりしていませんが、「俗世(ぞくせ)」から離れ、心を静かにしたいという思いがあったと考えられています。
また、当時は出家しても、今でいう「お坊さん」とは少し違い、自由な暮らしをすることができました。
仏教の教えを大切にしつつ、自分の思ったことを書きつづる生活をしていたのです。
だからこそ、あの『徒然草』のような深くて面白い文章が生まれたとも言えるでしょう。
学問と教養に優れた人物だった
吉田兼好はとても勉強熱心で、さまざまな知識を身につけていました。
漢詩、和歌、古典、歴史など、当時のエリートが学ぶべき教養をしっかり身につけていたのです。
また、自分で学ぶだけでなく、その教養を文章として人に伝える力も持っていました。
彼の書く文章はとても読みやすく、リズムがよくて心に残ります。
たとえば『徒然草』の最初の一文「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて…」という出だし。
この文章は、多くの人の心をつかみ、今も語り継がれています。
それだけではなく、彼の文章からは「観察力」や「人を見る目の鋭さ」も感じられます。
物事の本質を見抜き、それをわかりやすく伝える才能があったのです。
つまり、吉田兼好は、頭が良くて、教養の深い「知の人」だったというわけです。
今でいう“文化系インフルエンサー”的存在だった
現代でたとえるなら、吉田兼好は「文化系インフルエンサー」のような存在だったと言えるかもしれません。
彼は本を書いて、人々に考え方や生き方を伝えていました。
その言葉に多くの人が影響を受け、「なるほど」と思ったり、「そういう考えもあるんだ」と共感したりしました。
それはまるで、今の時代にSNSやブログで発信している人のようです。
ただし、兼好のすごいところは「700年たっても読まれている」という点です。
当時の人だけでなく、現代の私たちにも通じる言葉や考え方を書いていたのです。
時代を超えて人の心に届くというのは、そう簡単にできることではありません。
だからこそ、吉田兼好は「すごい人」として、今も語り継がれているのです。
『徒然草』とはどんな本?
「つれづれなるままに」で始まる随筆
『徒然草(つれづれぐさ)』は、吉田兼好が書いた随筆(ずいひつ)と呼ばれるジャンルの本です。
随筆とは、感じたことや思ったことを自由に書いた文章のことです。
『徒然草』の一番有名な始まりの言葉は「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて…」。
これは「やることもなく、ぼんやりと一日を過ごしながら、ふと思ったことを筆にとって書いてみた」という意味です。
つまり『徒然草』は、何気ない日常の中で感じたことや、自分の考えをまとめた本です。
それがとても面白くて、今でも多くの人に読み継がれています。
この本は、全部でおよそ243段の短い文章でできています。
それぞれが独立した話になっていて、好きなところから読めるのも魅力のひとつです。
時には人生について深く考え、時にはユーモアたっぷりに人を笑わせる。
そんな自由なスタイルが、多くの人に親しまれている理由なのです。
文章が美しく、読んでいて心地よい
『徒然草』の魅力のひとつは、その「文章の美しさ」です。
難しい言葉ではなく、やさしくてリズムのある文章で書かれています。
たとえば、「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」などの一節は、言葉の響きがとてもきれいです。
これは「花や月は、一番きれいなときだけを見るものなのか?」という意味です。
このように、兼好の言葉は、読む人の心にすっと入ってくるようなやさしさと深さがあります。
しかも、内容だけでなく、音の美しさにもこだわっているので、声に出して読むとさらに味わいが深まります。
昔の人たちは、文章を「音楽のように楽しむ」文化を持っていました。
そのため『徒然草』も、目で読むだけでなく、声に出して読むのに向いている本なのです。
読むことで心が落ち着いたり、考えさせられたりする。
そんな力がある本です。
当時の暮らしや人間の本質をつづった
『徒然草』は、単なる日記やエッセイではありません。
そこには、当時の人々の暮らしぶりや、人間の本質についての深い観察が込められています。
たとえば、建物のつくりや生活の工夫、人とのつき合い方など、現代にも通じるテーマが多く登場します。
また、身分の高い人だけでなく、庶民や旅人、僧など、さまざまな人たちの姿も描かれています。
兼好は、人間の弱さや愚かさにも目を向けました。
しかし、それをバカにするのではなく、「それが人間らしさだ」と受け入れる姿勢が感じられます。
このように、『徒然草』は「時代を超えて、人間って変わらないな」と感じさせてくれる本です。
それが、長く読み継がれている理由のひとつでもあります。
笑える話や教訓も多く含まれる
『徒然草』には、思わずクスッと笑ってしまうような話がたくさん出てきます。
たとえば、人のまねをして失敗した話や、おかしな風習を風刺した話などです。
それだけでなく、「こうやって生きたほうが楽だよ」「こういう考え方もあるよ」といった教訓も含まれています。
ただし、それを説教くさく語るのではなく、あくまで自然な流れで伝えてくれるのが兼好のうまいところです。
「なるほど、そういう考えもあるな」と思わせてくれる。
読んだあとに、心が少し軽くなるような内容が多いのです。
また、笑える話も、ただのおもしろ話ではありません。
その中には、物事の本質をつかむヒントがこっそりと仕込まれているのです。
だからこそ、読み進めるほどに「この人、ただものじゃないな」と感じさせられます。
教科書にも載る名作として知られる
『徒然草』は、中学校や高校の国語の教科書にもたびたび登場する有名な作品です。
それだけ、日本の文学史の中で重要な位置を占めているということです。
教科書に載っている一節を覚えている人も多いのではないでしょうか?
「つれづれなるままに…」の一文から始まる導入部分は、とくに有名です。
学校では「随筆文学」「中世文学」などのテーマで学ぶことが多いですが、それだけではなく、現代の生活にもつながるヒントがたくさん詰まっています。
読書感想文や授業の中で『徒然草』に触れたことがきっかけで、吉田兼好に興味を持つ人も少なくありません。
そして、大人になってから改めて読み返してみると、また違った発見があるのもこの作品の魅力です。
時代を超えて読み継がれる『徒然草』は、日本人にとって「心の教科書」のような存在だと言えるでしょう。
吉田兼好はなぜ『徒然草』を書いたのか?
ひとりの時間を楽しむ手段だった
吉田兼好が『徒然草』を書いた大きな理由の一つは、「ひとりの時間を楽しむため」だったと考えられています。
彼は出家してから、静かで孤独な時間を多く持つようになりました。
そんな時間の中で、自然や人間、世の中についてじっくり考えることができたのです。
そして、その考えを文字にして書き残していきました。
「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて…」という冒頭の言葉からもわかるように、時間を持てあましながら、ふと思いついたことを書きつづったというスタイルです。
つまり、書くこと自体が彼にとっての「遊び」であり「心の整理」でもあったのです。
テレビもスマホもない時代、自分の考えを文字にしていくことが、最高の娯楽であり、自己表現の方法だったのでしょう。
その文章が、時代を超えて今の私たちにも届いているというのは、なんとも不思議で素敵なことですね。
人間や社会について思ったことを書き残した
『徒然草』の中には、吉田兼好が「この世の中ってこういうところが変だな」とか「人っておもしろいな」と感じたことがたくさん詰まっています。
つまり、彼が見た「人間社会のリアル」を、そのまま書き残しているのです。
たとえば、無駄な見栄を張る人の話や、常識にとらわれすぎる人の行動を描いた話などがあります。
兼好は、そういう場面を観察するのがとても上手でした。
しかも、その観察を「ユーモア」と「やさしさ」をもって表現しているので、読んでいて嫌な気分にはなりません。
むしろ、「あ、自分もそういうところあるかも…」と自然に気づかせてくれます。
こうした書き方は、現代のエッセイやコラムにも通じるスタイルです。
吉田兼好は、まさに「人間観察の名人」だったと言えるでしょう。
そしてそれを、気取らず、飾らず、すなおな言葉でつづったところに、彼の魅力があるのです。
出家して俗世を離れたからこそ書けた
吉田兼好は、朝廷に仕える立場を自ら離れ、出家して仏教の世界に入りました。
そのことが、『徒然草』という作品を生むきっかけになったと考えられています。
出家するということは、世の中のしがらみや欲から距離を置くことを意味します。
その結果、彼は「物事の本質」を見つめる目を持つようになりました。
たとえば、「人はなぜ悩むのか?」「本当に必要なものは何か?」というような、深いテーマにも向き合えるようになったのです。
出家という選択は、単なる宗教的な修行だけでなく、「自由に考え、自由に生きる」ための道でもあったのかもしれません。
だからこそ、徒然草には「常識」や「世間の目」にとらわれない、自由な発想がたくさん見られます。
これは、出家という生き方を選んだからこそ書けた言葉たちなのです。
仏教的な考え方もにじみ出ている
『徒然草』には、ところどころに仏教的な思想が現れています。
たとえば、「すべてのものは無常(むじょう)である」「執着を捨てるべきだ」といった考え方です。
これは、仏教の教えの根本とも言える考え方です。
吉田兼好は、出家したことによって、こうした教えを自然と自分の中に取り入れていたのでしょう。
たとえば、「盛りを過ぎた花も美しい」という感性は、「すべてのものに価値がある」という仏教の視点に近いものです。
また、「死を恐れるな」「欲にとらわれすぎるな」といったメッセージも見られます。
だからといって、宗教的な説教のような文章ではありません。
むしろ、人生の中でふと感じた気づきを、さりげなく伝えるような言い方をしています。
そのため、読む人が自然に受け入れやすい内容になっているのです。
こうしたバランス感覚も、兼好の魅力と言えるでしょう。
「今」を大切にする心が見える
『徒然草』の中には、「今という時間を大切に生きよう」というメッセージがあちこちにちりばめられています。
「明日のことばかり考えていても仕方がない」とか、「今ある喜びに気づくことが大事だ」というような言葉が目立ちます。
これは、現代の私たちにとっても、とても大切な考え方です。
スマホやSNSに追われ、未来の心配ばかりしてしまいがちな今の時代。
そんな中で、「今、ここにある時間をじっくり味わう」ことの価値を思い出させてくれます。
たとえば、お茶を飲みながら外を眺めたり、自然の音に耳をすませたり。
そういう「小さな幸せ」を見つける感性を、兼好は大切にしていたのです。
『徒然草』を読むことで、私たちも「立ち止まることの大切さ」に気づくことができます。
それはまさに、忙しい現代人にとっての“心の処方箋”のような存在なのです。
『徒然草』の中から有名なエピソードを紹介
無常観を表す話:「あるはずのものが、ない」
『徒然草』の中でとても印象的なテーマのひとつが、「無常(むじょう)」です。
無常とは、「すべてのものは変わりゆくもの」という仏教の考え方を指します。
ある段では、兼好が「昨日まであった建物が、今日はもうない」といった場面に出会う様子が描かれています。
これは、「この世の中に永遠に変わらないものはない」ということを示しています。
たとえば、どれだけ立派な家でも、時間が経てば壊れます。
人間の命も、いつかは終わる運命にあります。
こうした事実を目の当たりにした兼好は、「だからこそ今この瞬間を大切にしよう」と語っているのです。
そしてそれは、現代の私たちにも当てはまります。
つい「当たり前」に感じている日常も、実はとてもはかないものかもしれません。
そのことに気づかせてくれる、深い話です。
人間の見栄を笑う話:「ほどほどが一番」
吉田兼好は、人間の「見栄(みえ)」についてもよく観察していました。
『徒然草』の中には、見栄を張りすぎて失敗する人の話がいくつか登場します。
たとえば、身分が高くないのに高そうな服を着て目立とうとする人。
実力がないのに偉そうにふるまう人。
こうした人たちに対して、兼好は決して怒ることなく、やさしいユーモアを交えてこう言います。
「ほどほどが一番いい」
つまり、自分を大きく見せようとするよりも、自分らしく、身の丈に合った生活をする方が楽だし美しいという考えです。
これは今の時代にも通じますよね。
SNSなどで、つい他人と比べてしまう現代人にとって、兼好のこの視点はとても参考になります。
「他人にどう見られるか」より、「自分がどう生きたいか」に目を向けることが大切なのです。
教訓になる話:「準備が大事」
ある段では、「何事も準備が大切」という教訓が込められた話が登場します。
たとえば、ある人が旅に出るときに、必要な持ち物を前日に用意しておかず、当日になってバタバタしてしまう話です。
兼好は、その様子を見て「準備の大切さ」をやんわりと伝えます。
「何事も思いたったときに準備をしておくことが、後の安心につながる」と。
この話は、現代の生活でもそのまま使える教訓です。
テスト勉強や仕事のプレゼン、旅行の支度など、何でも前もって準備をしておけば、焦らずにすみますよね。
兼好の時代にも、今と同じように「準備を怠る人」がいたことに、少し親しみを感じる人もいるでしょう。
人間の行動パターンって、何百年たっても変わらないのかもしれません。
シンプルに笑える話:「人のまねをして失敗」
『徒然草』には、思わずクスッと笑ってしまう話もいくつかあります。
その中でも有名なのが、「人のまねをして失敗した男」の話です。
ある男が、身分の高い人の立ち居振る舞いを見て、「自分もああなりたい」と思い、そのままマネをしました。
しかし、立ち方も話し方も中途半端だったため、周囲からは「何をしてるんだ?」と笑われてしまいます。
兼好はこの話を通して、「まねをするなら徹底的にやるべきだし、できないなら無理しない方がいい」と伝えています。
これはとても人間味のある話ですよね。
誰しも一度は「かっこよく見られたい」と思って背伸びした経験があると思います。
けれど、それがうまくいかないと逆に恥ずかしい思いをする。
だからこそ「自分らしさ」を大事にしよう、というのが兼好のメッセージなのです。
言葉のセンスが光る一節:「すべてにおいて言葉は大切」
吉田兼好は、言葉の使い方についてもたびたび語っています。
彼は「人は言葉によって評価されることが多い」と言っています。
たとえば、同じことを言うにしても、やさしく伝えるのか、きつく言うのかで、相手の受け取り方がまったく変わってきます。
また、自分の気持ちを上手に伝えるためには、言葉の選び方がとても大切です。
『徒然草』の中には、「話しすぎは損」「口数の少ない人の方が信頼される」といった言葉も出てきます。
これは、今のSNS時代にもあてはまる話です。
発信が簡単にできる今こそ、「どう伝えるか」に気をつける必要があります。
兼好の言葉には、「言葉の力」をしっかりと理解した人ならではの深さが感じられます。
人との関係において、言葉は刃にもなり、薬にもなる。
それを700年前にすでに見抜いていたことに、驚かされます。
現代に通じる吉田兼好の考え方
シンプルに暮らすことの大切さ
吉田兼好は、シンプルな暮らしこそが心の豊かさにつながると考えていました。
『徒然草』の中でも、「多くを持つより、必要なものを大切にする方がいい」といった考えが何度も登場します。
たとえば、ぜいたくな生活をしていても、心が落ち着かず満たされない人がいる。
反対に、質素でも心穏やかに暮らしている人もいる。
こうした場面を描きながら、「モノよりココロが大切だよ」というメッセージを送っているのです。
この考え方は、まさに現代の「ミニマリズム」や「丁寧な暮らし」に通じます。
便利なものがあふれる現代社会では、かえって情報やモノに振り回されがちです。
そんな時代だからこそ、兼好の「シンプルな生き方」の価値が、ますます光って見えます。
無理して他人と比べるより、自分が心地よいと感じる生活を選ぶこと。
それが、本当の意味での「豊かさ」なのかもしれません。
人の評価より自分の内面を見つめる
『徒然草』には、「他人にどう見られるか」よりも、「自分がどうあるか」が大事だという考えがたびたび出てきます。
たとえば、外見を気にするより、心を磨くことの方がずっと価値があるという話があります。
これは、「見栄」や「見せかけのかっこよさ」ばかりを追いかけがちな現代にもぴったりのメッセージです。
SNSで「いいね」を気にするあまり、本当の自分を見失ってしまうような場面は、現代人なら誰でも経験があるのではないでしょうか。
兼好は、そうした外側の評価に頼るのではなく、自分の内面に目を向けることを大切にしていました。
心を落ち着けて、自分自身のあり方を見つめる時間を持つ。
それが、本当の意味で「自分らしく生きる」ことにつながるのだと思います。
700年前に生きた兼好の言葉が、今も私たちの心に響くのは、このように本質を突いているからなのです。
常識にとらわれない自由な生き方
吉田兼好は、「世間の常識」や「当たり前」とされることに、時には疑問を持ち、柔軟な視点で物事を見ていました。
たとえば、皆が当たり前と思っていることでも、「本当にそれが正しいのか?」と立ち止まって考える姿勢があります。
これは、現代でもとても大切な考え方です。
「こうするのが普通」「みんながやっているから」という理由で行動することは、本当に自分のためになっているのでしょうか?
兼好は、そうした“型にはまった生き方”を疑い、自分の感覚や価値観を大切にするように促しています。
「人は人、自分は自分」というスタンスで生きていくことの大切さ。
それを、ユーモアを交えながら教えてくれるのが『徒然草』の魅力です。
常識に縛られず、自分のリズムで生きる。
そんな生き方に憧れる人にとって、吉田兼好の思想はとても励みになります。
今ある日常の価値を大切に
『徒然草』には、日常のささいな風景や出来事が多く描かれています。
たとえば、雨の日の静けさや、庭の草花のうつろい、風の音など。
それらは、一見なんでもないことのようですが、兼好はそれを美しく、味わい深く描いています。
つまり、「今ここにあるもの」の中にこそ、人生の豊かさがあると気づかせてくれるのです。
私たちはつい、「もっといい未来」や「もっと特別な体験」を求めがちです。
でも、兼好の言葉を読むと、「今ある日常」に目を向けることの大切さに気づかされます。
朝のコーヒーの香り、通学路の風景、家族との会話。
そうした小さなできごとが、実は一番大切なものかもしれません。
吉田兼好は、何気ない日々を「味わう心」を教えてくれているのです。
情報社会の今こそ「つれづれ」が響く
スマホやインターネットが当たり前の現代では、毎日大量の情報に囲まれて生活しています。
便利な一方で、「立ち止まって考える時間」が少なくなっているとも言えます。
そんな中で『徒然草』は、あえて“ぼんやりすること”の価値を教えてくれます。
「つれづれなるままに」――何もせずに時間を過ごすこと。
それが、実は心の整理や、ひらめきを生むために必要な時間だったりします。
現代人にとって、『徒然草』のような静かな本は「心の余白」を取り戻す手助けになるのです。
情報を詰め込みすぎて疲れたとき、SNSに振り回されていると感じたとき。
そんなときこそ、吉田兼好の言葉に触れて、「つれづれ」を楽しむ心を思い出してみましょう。
それはきっと、忙しい毎日を少し優しくしてくれるはずです。
まとめ
吉田兼好は、室町時代の初めに活躍した、文化と思想に優れた人物でした。
出家後に書いた『徒然草』は、日々の暮らしや人間の本質を深く見つめ、時にユーモアを交えて描いた名作です。
彼の言葉は700年たった今でも、私たちに生き方のヒントを与えてくれます。
「シンプルに生きること」「今を大切にすること」「常識にとらわれないこと」など、どれも現代に通じる価値観ばかりです。
特別な人ではなく、普通の人が共感できる視点をもっていたからこそ、吉田兼好の言葉は時代を超えて多くの人に愛されているのです。
『徒然草』は、日常に疲れた心に、そっと寄り添ってくれるような一冊。
ぜひ一度、静かな時間に読んでみてください。
きっと、新しい発見と、ちょっとした心の安らぎが見つかるはずです。