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島津義久は何をした人?わかりやすく簡単解説 兄弟と築いた九州の覇者の正体

戦国時代という激動の時代、武力と知恵を武器に生き抜いた人物たちが数多く存在します。
その中でも「島津義久(しまづ よしひさ)」という名前を聞いてピンと来る人は、あまり多くないかもしれません。

しかし、この島津義久こそ、九州をほぼ制圧し、豊臣秀吉や徳川家康と渡り合いながら島津家を未来に残した名将なのです。
今回はそんな義久が「何をした人なのか?」を、誰でもわかるように、やさしく解説していきます。

戦国の裏側で動いた、もうひとつの英雄物語を一緒にのぞいてみましょう。

目次

島津義久ってどんな人?プロフィールを簡単に紹介

戦国時代に活躍した九州の大名

島津義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した薩摩(現在の鹿児島県)の大名です。
彼は島津家の第16代当主として、九州全体を勢力下におさめるほどの力を持ちました。

生まれたのは1533年。
義久は戦国時代の真っただ中で育ち、乱世を生き抜くための知恵とリーダーシップを身につけました。
特に優れていたのは、家族を中心とした組織の力をまとめる力です。

武力だけでなく、戦略や外交でも優れた才を発揮した義久は、当時の戦国大名の中でも一目置かれる存在でした。
信長や秀吉のような「天下人」と比べられることは少ないですが、九州を中心に確かな足跡を残した人物です。

現代で言えば、実務能力に優れた「社長タイプ」のリーダーともいえるでしょう。

島津家のリーダーとして兄弟をまとめた存在

島津義久の家族には、戦国時代屈指の武将がそろっていました。
特に有名なのが弟・島津義弘(よしひろ)で、関ヶ原の戦いでの「敵中突破」は伝説となっています。

義久はこのような力強い弟たちをまとめる「リーダー役」でした。
兄弟たちが前線で戦っている間も、義久は冷静に状況を見て指示を出す「司令塔」としての役割を担いました。

こうした兄弟のチームワークが、島津家の勢力拡大に大きく貢献しました。
義久がいたからこそ、家族の力が最大限に活かされたといっても過言ではありません。

鉄砲戦術「釣り野伏せ」の指導者

島津義久が指導した戦術の中でも有名なのが「釣り野伏せ(つりのぶせ)」です。
これは敵をわざと追いかけさせ、待ち伏せしていた部隊で一気に攻撃するという作戦です。

この戦法は、戦国時代において非常に効果的で、特に「耳川の戦い」や「沖田畷の戦い」で大きな成果を上げました。
鉄砲を活用した近代的な戦術であり、島津家の戦い方に革新をもたらしたといえます。

義久は自ら最前線に立つよりも、戦い方を工夫することで勝利を導くタイプの指揮官でした。

九州統一を目指した野心家

島津義久は、ただの地方大名ではありませんでした。
彼の目標は「九州全土の統一」でした。

戦国時代、九州には大友氏や龍造寺氏などの有力な大名がいましたが、義久は次々と彼らを打ち破っていきます。
最終的には、豊臣秀吉が九州征伐に乗り出すまで、島津家はほぼ全九州を支配していたのです。

義久の野心と戦略がなければ、ここまでの勢力拡大は実現しなかったでしょう。

関ヶ原の戦い後の晩年について

関ヶ原の戦い(1600年)では、弟・義弘が激しい戦闘を行いましたが、義久自身は戦場には出ていません。
その後、徳川家康の政権下でも島津家は生き延び、薩摩藩として幕末まで続くことになります。

義久はその後も鹿児島で静かに余生を送り、1611年に亡くなりました。
政治的な駆け引きや、家を守る知恵を使って、島津家の礎を築いた人物です。


島津義久の兄弟たちとのチームプレイとは?

四兄弟で役割分担して戦国を生き抜いた

島津義久には3人の弟がいました。
義弘、歳久、家久の三人です。
この四兄弟が一丸となって戦国の荒波を乗り越えたのです。

義久がリーダーとして全体をまとめ、弟たちは戦場や各地で活躍しました。
この役割分担が、島津家の強さの秘訣でした。

一人が突出するのではなく、それぞれが自分の持ち場で力を発揮したことで、組織としての強さが際立っていました。

義弘との関係と役割の違い

弟の義弘は「武」の人。
多くの合戦で最前線に立ち、軍神のように戦いました。

それに対して義久は「知」の人。
戦略を練り、家や国のバランスを整えることに長けていました。

このように、兄弟でもしっかりと役割を分けていたため、無駄な衝突がなく、効率的な統治が可能だったのです。

幕府や敵国との交渉役を担った義久

義久は外交にも優れた能力を発揮しました。
豊臣秀吉との交渉や、徳川家康との駆け引きでも冷静さを失わず、島津家の地位を守ることに成功しました。

戦国時代の交渉は、命がけの政治ゲーム。
その中で義久は相手の出方を読みつつ、最善のタイミングで降伏や提案を行いました。

このバランス感覚は、義久ならではの才能でした。

現場で戦う兄弟たちを統率する司令塔

戦場においては、弟たちが前線で戦い、義久がその動きを見て総合的な指揮を取りました。
これはまさに司令塔の役割です。

現代でいえば、サッカーの監督が試合全体を見て指示を出すようなもの。
弟たちの信頼がなければこの役割は務まりません。

義久の冷静な判断力が、島津軍の勝利を支えていました。

「家」の力を最大化するための調整力

島津義久の強さは「個」の力ではなく、「家」の力を最大限に引き出す調整力にあります。
戦国時代は、戦の強さだけでなく、家臣や親族のまとめ役としての力も問われました。

義久は家臣との信頼関係も大切にし、無理に権力を振るうのではなく、調和を大切にするスタイルでした。
その結果、島津家は内紛なく発展し続けることができたのです。

島津義久と九州制覇への道のり

九州の有力大名を次々と攻略

島津義久は、薩摩・大隅・日向(現在の鹿児島・宮崎の一部)を拠点に勢力を広げていきました。
当時の九州には、強力な大名がいくつも存在しており、簡単に制覇できる土地ではありませんでした。

中でも、北部九州に強い影響力を持っていたのが大友氏と龍造寺氏です。
島津家はこの二大勢力と対立しながらも、巧みな戦略と兄弟の連携によって徐々に勢力を拡大していきました。

義久は力攻めだけではなく、時に同盟や裏切りを利用して勢力を削っていくなど、戦略的な行動をとります。
こうした積み重ねが、最終的に九州の大半を島津家が支配するという成果につながったのです。

「耳川の戦い」で大友氏に勝利

1578年に起こった「耳川の戦い」は、島津家の名を一気に高める出来事となりました。
この戦で島津軍は、大友宗麟率いる大友軍に圧勝します。

大友軍はポルトガルの支援や鉄砲の使用でも有名でしたが、島津軍の「釣り野伏せ」によって大敗を喫しました。
この勝利によって、島津家の名声は一気に九州全土に広がり、他の大名たちにも恐れられる存在になります。

義久の戦略と、弟たちの現場での活躍がうまくかみ合った戦いだったといえるでしょう。

秀吉の九州征伐で降伏

島津家が九州をほぼ制覇した1587年、ついに豊臣秀吉が動きます。
「九州征伐」と呼ばれるこの戦いで、豊臣軍は20万人以上の兵を率いて島津家に攻め込みました。

島津軍は勇敢に抵抗しましたが、兵力差は歴然。
最終的には義久が降伏し、島津家の命運をつなぐ道を選びます。

義久は自ら京都に出向き、秀吉に直接謝罪しました。
この行動が奏功し、薩摩・大隅・日向の一部はそのまま島津家に安堵されることとなります。

九州全体を支配寸前でストップ

義久の勢力は、秀吉の介入さえなければ九州統一が現実になる寸前でした。
あと一歩のところでその夢は断たれてしまいましたが、それでも一地方大名がここまで力を持ったことは驚異的です。

義久自身も「あともう少しで」と思ったことでしょう。
しかし、その後の対応を見ると、現実を見極めて最善の道を選ぶ冷静さもまた彼の持ち味でした。

降伏後も島津家の存続に尽力

降伏後の義久は、島津家をどう残していくかに注力します。
秀吉や家康といった中央政権に対して従いながらも、家の独自性を守る努力を続けました。

その結果、薩摩藩は幕末まで続き、西郷隆盛など多くの人物を輩出する土壌を築くことになります。
義久の決断と知恵が、長く続く島津家の「芯」を作ったのです。


関ヶ原の戦いと島津義久の対応

島津家としては西軍に協力

関ヶ原の戦いでは、島津家は石田三成率いる西軍に加勢しました。
ただし、これは家全体としてというよりは、主に弟の義弘が西軍に参戦した形です。

義久自身は戦場には出ず、あくまで薩摩で情勢を見守っていました。
そのため、西軍が敗れた後でも、比較的冷静に戦後処理へと移ることができたのです。

義久は前線に出ず冷静に状況を分析

島津義弘が「突撃タイプ」だとすれば、義久は「分析タイプ」。
この戦いにおいても義久は前線に立たず、裏から状況を判断して行動を選びました。

このような判断が功を奏し、戦後の処分では領土没収を免れました。
家全体の運命をかけた冷静な一手だったといえます。

義弘の「敵中突破」との対比

一方、弟・義弘は関ヶ原の本戦で奮戦し、最後には「敵中突破」を成功させて退却します。
これは島津家の名を一層高めた伝説の行動ですが、それを可能にしたのは薩摩側で義久がしっかりと後方を維持していたからでもあります。

義久と義弘、兄弟の見事なバランスが、敗戦の中でも家の誇りを保つ要因となりました。

家を守るという視点の決断

義久の判断は「家を守る」という長期的な視点に立っています。
戦いに勝つことよりも、家が生き延びること、家臣たちが無事であることを優先しました。

そのため、戦後も島津家は大名として存続し続けました。
これは戦国時代を生き残った数少ない大名家の一つとして特筆されます。

戦後処理で家名と領土を守る

関ヶ原の戦後処理において、島津家は減封や改易を受けることなく、薩摩・大隅の領土を維持しました。
これは徳川政権に対してもうまく立ち回った義久の交渉力と、家全体の「無理をしない」方針が功を奏した結果です。

戦いでは敗れても、政治的には勝ったともいえるでしょう。
義久の冷静さと先見の明がここでも光っています。

島津義久の性格・評価・後世の影響

知略型で冷静沈着な性格

島津義久は、戦国大名の中でも特に冷静で知略に富んだ人物として知られています。
無闇に感情的になることは少なく、常に状況を分析し、最善の一手を選ぼうとする姿勢が特徴でした。

合戦では弟たちに任せ、自身は戦略の立案や後方支援に徹しました。
これにより島津家は組織的な強さを発揮し、敵に対しても一枚上手な動きを見せることができたのです。

こうした性格は、戦国時代のような不安定な時代において、家をまとめ上げるために非常に重要でした。

政治力に長けた戦国大名として評価

義久は単なる武将ではなく、優れた政治家でもありました。
戦後処理や外交交渉において、その才能が特に発揮されます。

豊臣秀吉に降伏するタイミングや、徳川家康への対応などを見ると、義久がいかに政治判断に優れていたかがわかります。
一歩間違えれば島津家は滅亡していたかもしれませんが、義久はそうならないように慎重かつ的確に動きました。

そのため、戦国時代を代表する「実務派大名」として高く評価されています。

武よりも家の長としての責任を重視

戦国時代といえば、戦での武勇が重視されるイメージがあります。
しかし、義久はそれ以上に「家を守る」ことに重きを置いていました。

戦で名を上げるよりも、島津家がどうやって次の時代に生き残れるかを考え続けたのです。
これは単に保身ではなく、「家」を未来へとつなげるという強い責任感の表れです。

彼の判断には常に冷静な「全体視点」がありました。
それが義久という人物の魅力でもあります。

現代でも地元で人気の人物

鹿児島県を中心とした九州では、今でも島津義久は尊敬される歴史人物の一人です。
観光地では義久や島津家に関する資料館や銅像などが見られ、郷土の誇りとして語り継がれています。

また、学校教育などでも「家を守った知略の人」として紹介されることが多く、地元の人々にとって親しみのある存在です。

戦場で名を残した義弘と比べると地味に思われがちですが、義久の「見えない努力」はしっかりと評価され続けています。

「縁の下の力持ち」的な存在感

島津義久は表立った活躍よりも、裏で支える「縁の下の力持ち」としての存在感が際立ちます。
弟たちの活躍を引き出し、家臣団をまとめ、国を守る。

その全てにおいて、表に出ずに支える姿勢が一貫していました。
こうした人は目立ちにくいですが、組織としては欠かせない存在です。

義久のような人物がいたからこそ、島津家は乱世を生き延び、江戸時代までその力を保つことができたのです。


まとめ

島津義久は、一見すると戦国時代の「派手な武将」とは対極の存在かもしれません。
しかし、実際には戦略と冷静な判断力を兼ね備えた、非常に優れたリーダーでした。

兄弟をまとめ上げ、戦では戦術を、政治では交渉力を発揮し、何よりも「家を守る」という強い信念を持って行動しました。
そのおかげで、島津家は九州の覇者となり、江戸時代も力強く生き延びることができたのです。

義久のような「表には出にくいが、本当に頼れる人物」は、現代の社会や組織でも求められる存在でしょう。
彼の生き方は、今の私たちにも大きな学びを与えてくれます。

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