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フビライ・ハンとは何をした人?簡単にわかる歴史と元寇のまとめ

歴史の教科書でよく見る「フビライ・ハン」という名前。

「元寇の人?」「モンゴルの王様?」と、なんとなく知っていても、実はよくわからないという人も多いのではないでしょうか。

この記事では、「フビライ・ハンとは何をした人なのか」を、できるだけ簡単に、そして楽しく理解できるようにまとめました。

モンゴル帝国や元という国、そして日本にも関係する元寇(げんこう)など、知っておくと面白い歴史の舞台がたくさん登場します。

難しい漢字や言葉もやさしく解説しているので、中学生の人や歴史がちょっと苦手な人にもおすすめです。

フビライ・ハンのことがわかれば、世界史も日本史ももっと面白く感じられるはずですよ!

目次

フビライ・ハンはどこの国の人?どんな時代に生きたのか

モンゴル帝国の成立とフビライの誕生

フビライ・ハンは1215年に生まれました。
この時代は、モンゴル帝国がどんどん力を伸ばしていたころです。

モンゴル帝国は、フビライの祖父であるチンギス・ハンによってつくられた国です。
広大な草原地帯をもつモンゴルでは、もともとたくさんの部族がバラバラに暮らしていました。
その中から現れたのが、強くて頭もよかったチンギス・ハンです。

彼はモンゴルの部族をまとめて、強力な軍隊を作り上げました。
そして周りの国々を次々と攻めて広げていきました。
その流れの中で、フビライも誕生し、大きな帝国の一員として育てられたのです。

つまり、フビライはモンゴル帝国の王族に生まれた人物で、その中でも特に頭がよく、政治に強い関心を持っていたことで知られています。

チンギスハンとの関係とは?

フビライは、チンギス・ハンの孫にあたります。
チンギスハンには多くの息子がいましたが、その中のトルイという息子がフビライの父親です。

つまり、フビライはチンギス・ハンの血をしっかりと引き継いだ人物です。
また、フビライには兄弟もいて、その中にはモンゴル帝国の別の地域を治めた人もいます。

チンギス・ハンが築いた帝国はとても広かったので、一人の人間で全体を治めるのは難しかったのです。
そのため、各地に王族を送り込んで統治させていました。
フビライもその一人として、中国方面の地域を任されました。

このことが、のちにフビライが中国に新しい国を作るきっかけとなったのです。

フビライが生きた時代背景(13世紀)をざっくり理解

フビライが生きた13世紀は、世界中でいろいろな国が戦争や交易をしていた時代でした。
特にアジアでは、中国の南にある「宋」という国が力を持っていました。

一方で、モンゴル帝国は北から南へと勢力を伸ばしており、宋とぶつかる運命にありました。
また、この時代は「シルクロード」と呼ばれる交易の道が大切にされていた時期でもあります。

多くの人が商売のために旅をし、遠くの文化や技術が少しずつ伝わっていきました。
フビライも、このような時代の流れを読み取り、自分の国づくりに活かしていきました。

つまり、フビライが活躍した時代は、国と国のつながりが強まり始めた「世界が広がる時代」だったのです。

モンゴル族とは?遊牧民と定住民の違い

モンゴル族はもともと草原に住む「遊牧民」でした。
遊牧民とは、牛や羊などを連れて、草を求めて移動しながら生活する人々のことです。

一方で、中国などの「定住民」は、田んぼや畑を作って一つの場所に住んで生活します。
文化や価値観も大きく違います。

フビライは、この両方の文化を理解しようと努力した人物でした。
モンゴルのやり方だけでは中国をうまく治められないと気づき、中国の文化や制度を取り入れるようにしたのです。

それがのちの「元」という国の形につながります。

アジアとヨーロッパを結ぶ「道」を作った時代

フビライの時代、モンゴル帝国はユーラシア大陸の広い範囲を支配していました。
そのため、アジアとヨーロッパを結ぶ道が安全に使えるようになりました。

これを「パクス・モンゴリカ(モンゴルによる平和)」と呼ぶこともあります。
フビライは、国の中に駅伝制や道を整備し、馬で早く情報を届ける仕組みを作りました。

このおかげで、東西の交流がとても盛んになり、商人や文化人がたくさん旅をしました。
あのマルコ・ポーロも、この時代に中国までやってきたのです。

何をした人?フビライの代表的な功績

宋を滅ぼして中国を統一

フビライは、中国南部にあった「宋(そう)」という国を攻めて、最終的に滅ぼしました。
これにより、北から南までの中国をモンゴルの支配下におさめることに成功しました。

中国全土を外国人が支配するというのは、非常にめずらしいことでした。
フビライは武力だけでなく、政治の力を使って統一を進めたのです。

戦いのあとも、民衆の暮らしを安定させるために、農業や税の制度を整える努力もしました。

元(げん)という国を建てた

1260年、フビライはモンゴル帝国の皇帝になりました。
そして1271年、「元(げん)」という新しい国名をつけ、中国風の国家体制を整えました。

これは、モンゴルの王が初めて中国全土を支配した瞬間でもあります。
元の都は「大都(現在の北京)」に置かれ、政治や文化の中心として栄えました。

このように、フビライは遊牧民の王でありながら、漢民族の文化や制度を取り入れて新しい時代をつくったのです。

仏教や道教、儒教を重んじた政治

フビライは宗教にも理解が深く、多くの宗教を平等に扱いました。
仏教を特に大切にし、多くの寺院を建てたり、お坊さんを保護したりしました。

また、道教や儒教に対しても一定の敬意を持って接しました。
そのおかげで、中国の人々の信頼を得ることができたのです。

多くの宗教をうまく共存させることで、国の中の争いを減らす工夫をしていたといえます。

海外との貿易を盛んにした

フビライの時代には、外国との貿易がとても盛んになりました。
中国の「絹」や「陶器」は、ヨーロッパや中東にまで広がっていきました。

逆に、外国からも宝石や香辛料、技術などが入ってきました。
これは、フビライが交易の安全を保証し、商人を保護したからです。

このような開かれた政策のおかげで、元の時代はとても国際的な社会になりました。

日本遠征(元寇)を命じた人物

フビライは1274年と1281年、日本に対して2度の遠征を行いました。
これが「元寇(げんこう)」と呼ばれる出来事です。

日本側は鎌倉幕府が中心となって防衛し、特に2度目の遠征では大きな嵐が起こり、元軍が大敗します。
この嵐が「神風」として語り継がれることになります。

この元寇は、フビライにとって初めての大きな失敗でもありました。
以降、海外遠征は少なくなっていきます。

フビライと元寇(げんこう)の関係とは?

なぜ日本に攻めてきたのか?

フビライが日本に目を向けたのは、中国大陸を統一したあとでした。
彼は「元」という国を築き、その力をさらに外へと広げようとしていました。

当時、日本は鎌倉時代で、武士たちが政治の中心にいました。
フビライは日本に対して、「元に服従しなさい」という内容の国書を送りました。

しかし、日本はそれを無視しました。
それに対してフビライは、「ならば力で従わせるしかない」と考えたのです。

こうして、日本遠征が計画されるようになりました。
これはただの征服だけでなく、周辺諸国に元の強さを見せつける目的もあったのです。

2度の元寇(文永の役・弘安の役)の流れ

元寇は2回にわたって行われました。
1回目は1274年の「文永の役(ぶんえいのえき)」です。

このとき、元は高麗(今の韓国)と連合し、兵士を船に乗せて対馬や壱岐、そして九州北部に上陸しました。
日本側も武士たちが防戦し、激しい戦いが繰り広げられました。

しかし、夜に突然大きな嵐が来て、元軍の多くの船が沈んでしまいます。
これにより元軍は撤退しました。

2回目は1281年の「弘安の役(こうあんのえき)」です。
このときはさらに大規模で、東路軍(高麗・元)と江南軍(南宋を吸収した元)の連合でした。

しかし、またしても大きな台風に見舞われ、元軍は大きな損害を受けます。
これによって、日本遠征は完全に失敗に終わりました。

「神風」とは本当にあったの?

元寇のときに起きた2度の嵐は、日本では「神風(かみかぜ)」と呼ばれています。
これは「神が日本を守るために風を起こした」という意味です。

もちろん自然現象としての台風だったと考えられていますが、当時の人々にとっては神の加護だと思われていました。

この「神風」という言葉は、後の時代でも日本の象徴的な意味として使われることになります。
元寇の出来事は、日本人にとって大きな誇りのひとつとなりました。

元寇が日本に与えた影響とは

元寇は、日本の社会にもいろいろな影響を与えました。
まず、鎌倉幕府は防衛のために「石築地(いしづきじ)」という防塁を博多に築かせました。

また、多くの武士たちが戦いに参加しましたが、戦利品がなかったため、恩賞をめぐって不満がたまりました。
これがのちに鎌倉幕府が衰える原因のひとつになったとも言われています。

文化面では、元軍が使っていた武器や戦術などが伝わり、戦い方にも変化が出てきました。

元寇は、日本にとって大きな転機となった出来事だったのです。

フビライの失敗とその後の変化

元寇の失敗は、フビライにとって大きなショックだったと言われています。
とくに2度目の遠征での損害は甚大で、莫大な費用と人命が失われました。

これにより、元の国力は少しずつ弱まっていきました。
フビライはその後もベトナムやジャワ(インドネシア)などにも遠征を試みましたが、いずれも失敗に終わっています。

海外への拡大よりも、国内の安定を重視するべきだったという声も当時あったようです。
このことが、のちの元の衰退につながっていくのです。

フビライが作った「元」とはどんな国?

世界最大の帝国・元の地図と広さ

元の時代、モンゴル帝国は世界史上まれに見る広大な領土を誇りました。
地図で見ると、東は朝鮮半島から、西はヨーロッパの一部まで広がっています。

この広さは、現在の国々でいえば約20か国分にもなります。
特にフビライが治めた中国中心の「元」は、当時の文明や人口の中心地でした。

そのため、世界中から注目され、多くの人が元に来るようになりました。

交通や通信網が発展した

フビライは国をまとめるために、交通や通信のしくみを整えました。
「駅伝制(えきでんせい)」と呼ばれるシステムを作り、決まった距離ごとに馬を交代できる場所を設置しました。

これにより、情報や人、物資の移動がとても早くなりました。
また、街道沿いには宿や食事処も整備され、旅がしやすい時代になったのです。

この制度は、後の時代の交通インフラのモデルにもなりました。

異民族を統治するしくみ

元は、モンゴル人が多数の漢民族を支配するという特殊な国家でした。
そのため、支配する側とされる側のバランスがとても大切でした。

フビライは、民族ごとに階級を分け、制度として管理しました。

例えば、モンゴル人が一番上の地位にいて、その次に色目人(中東や中央アジアの人々)、
その次に漢人、そして南人(南宋の人々)が位置づけられていました。

これは不平等な制度ではありましたが、大きな反乱を防ぐための工夫だったともいえます。

マルコ・ポーロも訪れた国

イタリアの冒険家マルコ・ポーロは、父とともに元を訪れました。
彼は『東方見聞録(とうほうけんぶんろく)』という本の中で、元の都・大都(現在の北京)の壮麗さや、
フビライの統治のすばらしさについて詳しく書いています。

この本は、後にヨーロッパで大きな影響を与え、アジアへの関心を高めるきっかけとなりました。
特に、後の探検家コロンブスにも影響を与えたとされています。

元がのちにどうなったのか

フビライの死後、元の国は次第に力を失っていきました。
理由のひとつは、莫大な支出や異民族支配による不満の高まりです。

そして1368年、中国で「明(みん)」という新しい王朝が誕生し、元を打ち破りました。
モンゴル人たちは北の草原地帯へと退き、「北元(ほくげん)」という形で細々と続きました。

つまり、フビライが築いた元は100年もたたないうちに終わってしまったのです。

フビライ・ハンの死とその後の世界

晩年のフビライの姿

晩年のフビライは、若いころのような活力は失われていきました。
息子や妻を亡くした悲しみ、遠征の失敗、国の財政悪化などで心を痛めていたとも言われています。

それでも最後まで政治に関わり、国の運営に力を注いでいました。
1294年、フビライは79歳で亡くなります。

その死はモンゴルだけでなく、多くの地域で大きな出来事として受け止められました。

フビライの死後、元はどうなった?

フビライの死後、息子たちが次々と皇帝になりましたが、安定した統治は続きませんでした。
内部の争いが増え、役人の腐敗も進みました。

やがて農民の反乱が各地で起きるようになり、元は弱体化していきます。

そして明によって滅ぼされ、元の時代は終わりを迎えました。

モンゴル帝国の分裂と終焉

モンゴル帝国は、もともと広すぎる領土を持っていたため、フビライのころからすでに分裂の兆しがありました。
ロシア周辺には「キプチャク・ハン国」、中東には「イル・ハン国」など、兄弟や親戚が別の地域を支配していました。

フビライの死後、それぞれの国が独立的になり、最終的には帝国としての統一は失われます。
こうして、モンゴル帝国は地理的には残っていても、一つの国としては終わりを迎えました。

世界史に与えた影響とは

フビライとモンゴル帝国は、世界の歴史に大きな影響を与えました。
まず、アジアとヨーロッパをつなぐ道を安全にし、貿易や文化交流を発展させました。

また、多民族を統治する方法や、行政制度、郵便制度などが後の時代にも影響を与えました。

特に「元」という国は、外国人が中国を治めた初めての例として、世界史的にも重要です。

フビライが今も語り継がれる理由

フビライは、ただの武将ではなく、政治家としてもすぐれた人物でした。
遊牧民としての出自を持ちながら、中国の文化や制度をうまく取り入れた柔軟な発想は、今の時代にも通じる部分があります。

また、世界中とのつながりを意識した「開かれた国家」を目指した点も高く評価されています。

そのため、今も多くの歴史教科書や研究で語られる存在なのです。

フビライ・ハンとは何をした人なのか?まとめ

フビライ・ハンは、モンゴル帝国をさらに発展させ、中国全土を支配して「元」という新しい国をつくった人物です。

彼は軍事だけでなく、政治や文化、宗教など、あらゆる面でバランスの取れたリーダーでした。

日本では「元寇」の指導者として知られていますが、それ以外にもたくさんの功績があります。

たとえば、宋を滅ぼして中国を統一したり、交通制度や通信網を整えたり、多民族国家をうまく運営したりしました。

また、仏教や儒教を尊重し、外国との貿易も活発にしたことで、世界とのつながりを築いた人物でもあります。

彼の統治は長く続かなかったとはいえ、その影響は今でも歴史や文化の中にしっかりと残っています。

フビライ・ハンは、「力」と「知恵」の両方を持つ、世界史に名を残す偉大な人物だったのです。

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