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後醍醐天皇って何をした人?功績と失敗がわかる簡単解説

「後醍醐天皇って何をした人?」

歴史の授業で名前は聞いたことがあるけど、実際にどんなことをしたのかは知らないという人も多いのではないでしょうか?

この記事では、そんな後醍醐天皇の人生や政治、評価について、中学生でも理解できるように簡単にわかりやすく解説します。

日本史の重要な転換期を生きた彼の生涯を知ることで、教科書だけではわからない歴史の面白さに気づくはずです!

目次

後醍醐天皇ってどんな人?簡単プロフィール

鎌倉時代末期に生まれた天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、1288年に誕生しました。

時代は鎌倉幕府が政治の中心を握っていたころです。

朝廷の力は弱まり、天皇は形式的な存在にすぎませんでした。

そんな中で、後醍醐天皇は「天皇こそが政治を行うべきだ」という強い考えを持っていました。

この時代の天皇としては非常に珍しく、政治への強い意欲を見せた人物です。

生まれながらにして「自分が世の中を変えたい」という信念を持っていたことが、後の行動につながっていきます。

彼が登場することで、長く続いた武士による支配が一度終わりを迎えることになるのです。

そのスタートラインに立った人物こそ、後醍醐天皇です。

政治に強い関心を持っていた

後醍醐天皇は学問が好きで、漢詩や歴史書をよく読んでいたと伝えられています。

その中で、中国の皇帝が政治を動かす姿に強いあこがれを持ったとされています。

日本の天皇が政治の中心から外れていることに不満を持ち、「自分が立て直さなければならない」と考えるようになりました。

彼の政治への関心は、単なる理想論ではなく、本気で国の未来を変えたいという行動へと結びつきます。

天皇自らが政治を行う「親政(しんせい)」を夢見て、後醍醐天皇は次第に実力をつけていきました。

これは、ただの象徴ではなく、「動く天皇」だったことを意味します。

幕府に対して不満を抱いていた理由

当時の鎌倉幕府は、武士による支配が続き、朝廷の力はほとんどありませんでした。

朝廷には十分なお金もなく、政治に口出しすることもできません。

そのため、後醍醐天皇は「このままでは日本が乱れる」と危機感を持つようになります。

さらに、幕府は自分たちの都合のよい天皇を選ぶ「両統迭立(りょうとうてつりつ)」という仕組みを使って、天皇家を分裂させていました。

これにより、天皇の正統性までもが軽んじられるようになり、後醍醐天皇の怒りは頂点に達します。

この不満が、やがて「幕府を倒す」という決断につながっていきます。

「天皇中心の政治」を理想とした

後醍醐天皇が目指したのは、「天皇が政治の中心に立つ世の中」でした。

中国のように、皇帝が自ら政治を動かすスタイルを参考にしていました。

この考えは、日本では非常に珍しく、当時の常識を大きく変えるものでした。

しかし、それは同時に武士や公家の反発を生む危険な理想でもありました。

彼の理想は現実とぶつかりながらも、確かな行動として現れていきます。

それが「建武の新政」という改革です。

学問や文化にも造詣が深かった

後醍醐天皇は政治だけでなく、文化や芸術にも優れていました。

特に漢詩や仏教に深く関心を持ち、詩文を自ら書くこともありました。

また、天台宗や真言宗など、さまざまな仏教の教えに精通していたといわれています。

このように、多才な才能を持っていたことも後醍醐天皇の特徴です。

彼の時代には、新しい文化の動きも見られ、精神面でも国を変えようとした姿勢が感じられます。


建武の新政とは?何をしようとしたの?

鎌倉幕府を倒した背景

後醍醐天皇は、1331年に倒幕(とうばく)を決意し、「元弘の乱(げんこうのらん)」を起こしました。

この反乱は一度失敗し、彼自身が島流しにされるという厳しい結果になります。

しかし、その後も支持者たちの努力によって再び活動を再開し、ついに1333年、鎌倉幕府は滅びます。

このとき活躍したのが足利尊氏や新田義貞などの武将たちでした。

幕府が倒れたことで、日本の政治は大きく動き始めます。

ここから後醍醐天皇の「建武の新政」が始まります。

建武の新政の目指した政治のしくみ

建武の新政では、武士中心ではなく、天皇を中心とした政治が実現されました。

公家が官職につき、天皇の命令で国が動くようにしたのです。

土地の管理も再編され、今までの武士の権限を縮小させました。

この改革は後醍醐天皇の理想に近いものであり、一時的に夢が実現した瞬間でもありました。

しかし、理想と現実のギャップは次第に広がっていきます。

武士や公家からの反発が起きた理由

建武の新政は、武士の土地や地位を取り上げることになり、多くの不満を生みました。

特に、幕府を倒すために戦った武士たちは「報酬がない」と不満を漏らしました。

また、公家たちも身分制度の再編に混乱し、天皇の理想に従いきれなかったのです。

このように、改革は現場でうまく機能しない部分が多く、次第に不満がたまっていきました。

理想を押し通すあまり、周囲の信頼を失う結果となってしまったのです。

政策の内容と問題点

建武の新政では、中央集権を目指して官制改革が進められました。

しかし、急な制度変更が多く、地方との連携が取れず、統治が混乱しました。

また、財政面でも公家に偏った支出が問題となり、農民や武士の生活が苦しくなりました。

こうしたバランスの悪い政策が、政権への不満を加速させていきます。

改革の方向性が見えにくかったことも、信頼を失った大きな原因です。

建武の新政が失敗した原因とは?

建武の新政の最大の失敗理由は、「理想ばかりで現実が見えていなかった」ことです。

後醍醐天皇は、自らの理想を強く追い求めましたが、それが周囲の支援を失う原因となりました。

特に、協力してくれた武士たちへの配慮が足りなかったことが大きな誤算です。

結果として、足利尊氏などの有力武将が離反し、政権は崩壊してしまいます。

建武の新政はわずか3年で終わり、日本は再び混乱の時代へと突入します。

足利尊氏との対立と南北朝時代の始まり

最初は味方だった足利尊氏

足利尊氏(あしかがたかうじ)はもともと、後醍醐天皇の側についた有力な武士でした。

建武の新政を実現するために、鎌倉幕府を倒す大きな力となった人物です。

しかし、建武の新政が始まると、尊氏はその方針に疑問を持つようになります。

自分たち武士が報われない仕組みに不満を感じ、「このままではいけない」と思うようになります。

後醍醐天皇は公家を重視しすぎ、武士の声を聞こうとしなかったため、尊氏との関係は次第に悪化していきました。

かつての協力者が、次第に敵へと変わっていくのです。

尊氏の裏切りと朝廷との対立

ついに足利尊氏は、後醍醐天皇に反旗を翻します。

1336年、尊氏は京都を制圧し、別の天皇(光明天皇)を即位させました。

これにより、朝廷は真っ二つに割れることになります。

後醍醐天皇は京都を離れ、奈良を経て吉野へと移ります。

そして、「自分こそが正統な天皇である」と主張し、もう一つの朝廷(南朝)を立ち上げたのです。

一方で、尊氏が立てた天皇を中心とした朝廷は「北朝」と呼ばれます。

こうして、日本に二つの天皇が並び立つ異例の時代が始まりました。

南朝と北朝に分裂した理由

南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、1336年から1392年まで続いた、日本史上でも特に複雑な時代です。

後醍醐天皇は「皇位は血筋が正しい者が継ぐべきだ」と主張しました。

一方、足利尊氏は「政治が安定することが優先」として、光明天皇を立てました。

この「正統性」をめぐる対立が、南朝と北朝の分裂の原因です。

南朝は吉野(奈良県)に、北朝は京都に拠点を置いて、それぞれの正義を主張しました。

武士たちも分裂し、全国的な戦いが続く混乱の時代となります。

南北朝時代の影響とは?

南北朝時代は、日本全国に大きな混乱をもたらしました。

天皇が二人存在することで、誰を「本物」とするかをめぐって戦が絶えませんでした。

この時代、地方の武士や農民たちはそれぞれの勢力に巻き込まれ、生活も不安定になります。

また、政治の混乱に乗じて、新しい勢力が各地に現れるなど、秩序が崩れていきます。

結果として、天皇の権威も傷つき、朝廷の力はさらに弱まることとなります。

この混乱は、足利義満の時代にようやく収束しますが、それまでに多くの犠牲が出たのです。

朝廷の正統をめぐる争い

南北朝時代では、どちらの天皇が「正統」なのかという議論が続きました。

南朝は後醍醐天皇の血を引く直系の天皇であるため、正統を主張します。

一方、北朝は武士の支援を受けており、実際に政治を動かしていたという現実がありました。

この対立は、明治時代になってようやく決着がつきます。

明治政府は、南朝を「正統な天皇」として認め、歴史書にもそう記されるようになりました。

つまり、後醍醐天皇の血統が「正式な皇位継承者」とされたのです。


後醍醐天皇の評価と歴史的な意義

理想主義的な政治家としての評価

後醍醐天皇は、理想を追い求めた政治家として評価されています。

「天皇が自ら政治を行う」という考えは、当時としては非常に大胆で先進的でした。

しかし、その理想が現実には合わず、多くの混乱を引き起こしました。

理想を形にするために行動した姿勢は高く評価される一方で、実際の結果は厳しいものでした。

歴史家の中には、「もっと現実と折り合いをつけるべきだった」と指摘する声もあります。

理想と現実のギャップに苦しんだリーダーともいえるでしょう。

「天皇親政」の実現を目指した勇気

後醍醐天皇は、長い間形式だけだった天皇制を実際に動かそうとしました。

これは、歴代の天皇の中でも非常に珍しい挑戦でした。

そのため、「天皇親政(てんのうしんせい)」という言葉とともに、歴史に名を残しています。

自ら前に立って政治を行う姿は、当時の多くの人々に驚きを与えました。

このような勇気ある行動は、たとえ失敗に終わったとしても、大きな意味を持っています。

後醍醐天皇は、挑戦することの大切さを教えてくれる人物でもあります。

現代に続く天皇制への影響

後醍醐天皇の行動は、現代の天皇制にも間接的な影響を与えています。

たとえば、天皇の役割とは何か、象徴とは何かという議論の原点にもなっています。

また、南朝を正統とした明治政府の判断は、現在の皇位継承の正統性にもつながっています。

このように、後醍醐天皇は歴史的な意味だけでなく、制度としての天皇制にも影響を与えた人物です。

日本の歴史の流れを深く理解する上で、欠かせない存在だといえます。

教科書ではどう扱われているか

中学校や高校の教科書では、後醍醐天皇は「建武の新政」と「南北朝時代」の中心人物として登場します。

特に、鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の成立までの流れの中で、非常に重要な存在とされています。

ただし、ページ数の関係であまり深くは触れられていません。

そのため、「何をした人なのか」がわかりにくいという声もあります。

今回のような解説を通じて、教科書の内容をより深く理解できるようになるでしょう。

歴史研究で見直される後醍醐天皇

最近の歴史研究では、後醍醐天皇の行動が再評価されることが増えています。

たとえば、「理想主義だけでなく、戦略的な面もあったのでは?」という意見も出ています。

また、彼の文化的な側面にも注目が集まり、詩や仏教への影響が見直されています。

さらに、地方の古文書や寺院の記録から、これまで知られていなかった行動も明らかになりつつあります。

歴史は常に書き換えられるものであり、後醍醐天皇もその一人といえるでしょう。

後醍醐天皇にまつわる豆知識・雑学

吉野での晩年とお墓の話

後醍醐天皇は、足利尊氏に敗れた後、京都を離れ奈良の吉野に移り住みました。

そこで南朝を立て、自分こそが正統な天皇だと主張し続けました。

彼は吉野の山奥で残りの人生を送り、1339年にその地で亡くなります。

亡くなった後は、吉野の金峯山(きんぷせん)にある「塔尾陵(とうのおのみささぎ)」に葬られました。

この場所は現在も皇室の公式なお墓として大切にされています。

観光地としても有名で、多くの歴史ファンが訪れるスポットになっています。

吉野の自然に囲まれた静かな環境は、後醍醐天皇の晩年を象徴しているようです。

南朝正統論とは?

「南朝正統論(なんちょうせいとうろん)」とは、明治時代に打ち出された歴史の考え方です。

これは、後醍醐天皇の南朝こそが正しい天皇の流れであるとする立場です。

この考えは、明治政府が天皇制の正統性を強調するために採用されました。

それまで曖昧だった南北朝の正統問題に、国家としての判断が下されたのです。

以後の教科書や歴史書でも、南朝が「正統」として描かれるようになりました。

つまり、後醍醐天皇の血筋が正しく継がれたものとされ、彼の立場が大きく見直されることになったのです。

明治時代に再評価された理由

明治時代は、天皇中心の国家体制を作ろうとした時代です。

そのとき、天皇の権威を高めるために「過去の天皇の中で勇敢だった人」を再評価する動きがありました。

後醍醐天皇は、自ら政治を行おうとした珍しい天皇であったため、「理想の天皇像」としてぴったりだったのです。

その結果、彼の行動や思想が称賛されるようになり、教科書にも「南朝正統論」が載るようになりました。

現代の評価とは少し異なりますが、国家の都合で歴史の評価が変わることを象徴する例でもあります。

歴史は常に、その時代の価値観で塗り替えられるものなのです。

名前の由来と意味

「後醍醐天皇」という名前には意味があります。

「後」は「後に続く」という意味で、「醍醐」は以前に在位した「醍醐天皇」にちなむ名前です。

つまり、「醍醐天皇の精神を受け継ぐ者」という意味が込められています。

醍醐天皇も理想的な政治を行ったとされる名君でした。

その名を継ぐことで、後醍醐天皇も「理想の政治を目指す」決意を示したのでしょう。

名前からも彼の理想主義がにじみ出ているのがわかります。

歴代天皇の中でも、とくに名前に意味が込められている例といえます。

後醍醐天皇を描いた作品やドラマ

後醍醐天皇は、日本の歴史ドラマや小説でたびたび登場します。

たとえば、NHKの大河ドラマ『太平記』では、足利尊氏と並ぶ重要人物として描かれました。

また、歴史小説や漫画でも、彼の理想と現実のギャップをテーマにした作品が多くあります。

その中で、後醍醐天皇は「理想に燃えるが孤独なリーダー」として描かれることが多いです。

キャラクターとしてもドラマ性が強く、読者や視聴者に深い印象を残します。

こうした作品を通じて、後醍醐天皇に興味を持つ人が増えているのも事実です。


後醍醐天皇は何をした人?まとめ

後醍醐天皇は、「天皇が自ら政治を行う」という強い理想を持った日本史上まれに見る存在です。

彼は鎌倉幕府を倒し、「建武の新政」を実行しましたが、理想と現実の差に苦しみ、失敗に終わりました。

その後、足利尊氏との対立により南北朝時代が始まり、日本は長い混乱に陥ります。

しかし、後醍醐天皇の行動は後世に大きな影響を与え、特に明治時代には「理想の天皇像」として高く評価されました。

彼の生涯は、理想を追い求めることの意義と、それに伴う困難を私たちに教えてくれます。

歴史の表舞台で活躍し、今なお語り継がれる後醍醐天皇は、まさに「何をした人?」という問いにふさわしい、波乱に満ちた人物です。

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