東京都荒川区にある「尾久」という地名を、あなたは何と読みますか?
JRを利用する機会が多い人なら、「おく」と答えるかもしれません。
ところが、東尾久や西尾久など地域の「尾久」は「おぐ」と読みます。
しかも歴史をさかのぼっていくと、昔は「小具」や「越具」という漢字も使われ、1399年の文書には「小具郷」という名前が残っています。
さらに1241年の『吾妻鏡』に登場する「犬食名」を尾久と結び付ける伝承まであります。
では、「尾久」という名前は結局どこから生まれたのでしょうか?
なぜ古くから「おぐ」と呼ばれてきた地域の近くに、「おく」と読むJR尾久駅があるのでしょうか?
この記事では、公的な歴史資料をもとに、史料で確認できる事実と、語源についての言い伝えや推測を分けながら、尾久という地名の歴史を分かりやすくたどります。
二文字の地名を追いかけるだけでも、600年以上前の東京へつながる意外な歴史が見えてきます。
尾久の地名の由来とは?最初に結論をわかりやすく解説
「尾久」という地名について先に結論をまとめると、荒川区の東尾久・西尾久は「おぐ」と読み、その語源は現在も一つに確定していません。
一方、室町時代の1399年には「小具郷」という名称が文書に残っており、現在の尾久につながる「おぐ」という呼び名が、少なくとも600年以上前までさかのぼれることは重要な事実です。
まず、全体像を簡単に整理してみましょう。
| 知りたいこと | 結論 |
|---|---|
| 「尾久」の読み方 | 地域名は「おぐ」 |
| JR尾久駅の読み方 | 「おく」 |
| 語源は確定している? | 確定していない |
| 古い表記 | 「小具」「越具」など |
| 史料で確認できる重要な名称 | 1399年の「小具郷」 |
| 『吾妻鏡』との関係 | 1241年の「犬食名」と結び付ける地域の伝承がある |
| 「江戸の奥」が由来? | 起源と断定できる史料は確認できない |
| 現在「尾久」という町名はある? | 東尾久・西尾久として残っている |
| なぜ駅だけ「おく」? | 公開されている公的資料では決定的な理由を確認できない |
「尾久」の正しい読み方は「おぐ」
荒川区の地名としての「尾久」は「おぐ」と読みます。
現在の住所でいえば、「東尾久」は「ひがしおぐ」、「西尾久」は「にしおぐ」です。
地域に残る名前を見ても、尾久八幡神社は「おぐはちまんじんじゃ」、尾久の原公園は「おぐのはらこうえん」と読まれています。
荒川区が定めている道路の愛称にも「尾久本町通り」があり、公式な読み方は「おぐほんちょうどおり」です。
このように、現在の地域名や施設名では「おぐ」という読み方がはっきり受け継がれています。
ところが、鉄道では事情が異なります。
JR東日本の「尾久駅」は、公式に「おく」と読みます。
そのため、電車で尾久駅を先に知った人ほど「尾久は『おく』なのでは?」と感じやすいのですが、地域名と駅名では正式な読み方が異なっています。
尾久の由来を調べるときは、最初にこの違いを押さえておくと、その後の歴史が理解しやすくなります。
尾久の語源は現在も一つに確定していない
「尾久」という名前がどこから生まれたのかについては、現在まで一つの答えに確定していません。
ここで大切なのは、「古い文書に何と書かれているか」と「その言葉がなぜ生まれたか」は別の問題だということです。
荒川区の公式アーカイブでは、尾久について昔は「小具」「越具」などの漢字も使われたことが紹介されています。
さらに、1399年の文書には「小具郷」という名称が確認できます。
つまり、「おぐ」という音につながる名称が中世から存在したことには史料上の根拠があります。
しかし、なぜその土地が「おぐ」と呼ばれるようになったのかという最初の語源までは分かっていません。
『吾妻鏡』に登場する「犬食名」と結び付ける伝承もありますが、これも「犬食が確実に尾久へ変化した」と証明されたものではありません。
地名の由来というと一つの明快な答えを期待したくなりますが、尾久の場合は「分かっている歴史」と「語源についての説」を分けて考えるのが最も正確です。
古くは「小具」「越具」などとも書かれていた
現在は「尾久」という二文字が定着していますが、昔から漢字が固定されていたわけではありません。
荒川区の歴史資料では、「小具」「越具」という表記も使われていたことが確認されています。
これは尾久の由来を考えるうえで非常に重要なポイントです。
現在の「尾」という字だけを見て、「何かの尾に位置した場所なのではないか」と考えたり、「久」という字そのものに意味を求めたりしても、必ずしも地名の起源にはたどり着けません。
なぜなら、過去にはまったく別の漢字も使われていたからです。
古い地名では、先に呼び名があり、後からその音に漢字を当てることがあります。
尾久についても、「おぐ」という音があり、時代や文書によって異なる文字が使われた可能性を考える必要があります。
ただし、「小具から越具へ変わり、その後に尾久になった」という一本道の変化が史料によって完全に証明されているわけでもありません。
分かっているのは、現在の「尾久」以外にも「小具」「越具」という表記が存在したことです。
この事実だけでも、「尾久」という現代の漢字の意味だけから語源を断定するのは危険だと分かります。
尾久という呼び名は江戸時代より前から存在していた
尾久は、江戸の発展とともに突然生まれた地名ではありません。
現在の尾久につながる「小具郷」という名称が確認できるのは、応永6年にあたる1399年です。
この年の11月12日付「上杉禅助(朝宗)施行状」に「武蔵国豊島郡小具郷内」と記されています。
荒川区の公式アーカイブでは、この文書について『北区史 資料編古代中世1』90号文書を出典として示しています。
1399年といえば室町時代です。
徳川家康が江戸に入った1590年より約190年も前になります。
また、尾久八幡神社についても、尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された1312年ごろの創建と考えられており、現在残る棟札で最も古いものには1385年の年号があります。
このため、尾久周辺の歴史そのものが中世までさかのぼることは間違いありません。
普段は東京の住宅地として目にする東尾久や西尾久ですが、その名前の背景には600年以上前の文書につながる歴史があります。
「江戸の奥だから尾久」と単純には言い切れない理由
現在の「尾久」という漢字を見ると、「江戸から見て奥にある場所だったから尾久になった」と考えたくなるかもしれません。
しかし、この説明をそのまま地名の起源とするには問題があります。
最大の理由は、江戸が徳川政権の中心として発展するより前の1399年に、すでに「小具郷」という名称が確認されていることです。
しかも、そのとき使われている字は「尾久」ではなく「小具」です。
そのため、現在の「尾久」という漢字を見て「奥」という意味から逆算するだけでは、中世の「小具」を説明できません。
もちろん、「おぐ」という呼び名が歴史のどこかで「奥」という言葉と結び付けて解釈された可能性まで否定する必要はありません。
ただし、今回確認した荒川区の公開資料では、「江戸の奥であることが地名誕生の直接の理由だった」と裏付ける史料は確認できません。
地名の由来では、分かりやすい説明ほど事実のように感じてしまうことがあります。
尾久の場合は、まず1399年の「小具郷」という確かな記録を基準に考えることが大切です。
尾久という地名はいつ生まれた?古い史料から歴史をたどる
『吾妻鏡』に記された「武蔵国豊嶋庄犬食名」
尾久の由来を調べると、非常に気になる言葉が登場します。
それが『吾妻鏡』仁治2年、1241年4月25日条に記された「武蔵国豊嶋庄犬食名」です。
荒川区の公式アーカイブでは、地域に伝わる説明として、この「犬食名」を尾久の歴史と結び付けています。
伝承では、「犬」の字は「大」の書き間違いで、本来は「大食」であり、「おおぐい」が「おぐ」へ変化したとされています。
ただし、ここには重要な注意点があります。
『吾妻鏡』に「犬食名」という文字が記されていることは史料上確認できますが、「犬が大の誤記だった」「大食が尾久になった」という部分は地域に伝わる説明です。
両者を同じ確かさで扱うことはできません。
荒川区の資料自体も、この説明を言い伝えとして紹介しています。
そのため、「尾久の語源は大食だった」と断言するより、「1241年の犬食名を尾久と結び付ける伝承がある」と理解する方が正確です。
地名の歴史では、このように古文書の記録と後世の解釈が重なっていることが珍しくありません。
中世の史料に登場する「小具郷」とは
尾久の歴史を考えるうえで、特に重要なのが「小具郷」です。
応永6年、1399年11月12日付の上杉禅助(朝宗)施行状には、「武蔵国豊島郡小具郷内」と記されています。
現在の「尾久」と漢字は違いますが、「小具」は現在の「おぐ」につながる中世の地名として確認できる重要な記録です。
ここが「犬食名」と大きく違うところです。
「犬食名」については現在の尾久とのつながりに伝承による解釈が入りますが、「小具郷」は荒川区の歴史資料でも尾久地域の古い名称として位置付けられています。
さらに、当時の小具郷は現在の東尾久や西尾久だけを指したわけではなかったとされています。
荒川区の資料では、田端方面から現在の東日暮里、台東区根岸付近まで含む、現在より広い地域だったことが紹介されています。
昔の「郷」と現在の町丁目では地域の区切り方が異なるため、今の地図をそのまま中世へ当てはめることはできません。
尾久という地名を深く理解するには、「現在の東尾久・西尾久」より大きな範囲を想像する必要があります。
「小具」「越具」「尾久」と表記が変化した背景
尾久には「小具」「越具」「尾久」という複数の表記が残されています。
では、なぜ漢字が変わったのでしょうか。
残念ながら、「この年に小具から越具へ変わり、その後この理由で尾久になった」という過程を連続して示す史料は、今回確認した公的資料にはありません。
ここで注目したいのは、漢字より「おぐ」という音です。
昔の地名では、現在ほど表記が厳密に統一されていないことがあります。
同じ地名でも、書き手や時代によって違う漢字が当てられることがありました。
尾久でも同じようなことが起きていたと考えると、「尾」という漢字そのものから語源を考えるより、「おぐ」という呼び名がどこから来たのかを見る方が重要になります。
1399年の時点ですでに「小具郷」が存在することは、その考え方を支える大きな手掛かりです。
現在の文字だけではなく、昔の異表記まで見ることで、地名の由来をより慎重に考えられるようになります。
江戸時代には上尾久村・下尾久村などが存在した
中世の小具郷は、そのまま同じ範囲で近代まで続いたわけではありません。
江戸時代になると、尾久地域には上尾久村、下尾久村、船方村の一部が存在していました。
荒川区の資料では、正保年間の1644年から1648年ごろまでに、上尾久、下尾久、舟方へ分かれていたことが紹介されています。
現在でも、その時代の尾久を知る貴重な資料が残っています。
尾久八幡神社には「上尾久村村絵図」が伝えられており、荒川区指定有形文化財となっています。
絵図からは、水路が何本も通る農村だった当時の様子を知ることができます。
荒川区立図書館によると、尾久地区には石神井用水の支流や排水のための水路があり、八幡神社の北側で合流する水路は八幡堀と呼ばれていました。
現在は住宅や道路が広がる尾久ですが、江戸時代には水と農業が身近な地域だったのです。
古い記録を年代順に並べると尾久の歴史が見えてくる
尾久の歴史は、時系列にすると分かりやすくなります。
| 年代 | 確認できる出来事 |
|---|---|
| 1241年 | 『吾妻鏡』に「武蔵国豊嶋庄犬食名」が登場 |
| 1312年 | 尾久の地が鶴岡八幡宮に寄進されたころとされる |
| 1385年 | 尾久八幡神社に残る最古の棟札の年 |
| 1399年 | 上杉禅助(朝宗)施行状に「小具郷」と記される |
| 1644~1648年ごろ | 上尾久・下尾久・舟方に分かれていたことが確認される |
| 1889年 | 北豊島郡尾久村となる |
| 大正期 | 尾久町となる |
| 1932年 | 尾久町などをもとに荒川区が成立 |
| 1964年 | 東尾久・西尾久で住居表示を実施 |
1241年の「犬食名」と現在の尾久との関係には伝承による解釈がありますが、1399年の「小具郷」は現在の尾久につながる重要な中世の記録です。
近代になると、明治22年の1889年には北豊島郡尾久村となり、その後は尾久町へ移行しました。
荒川区の沿革資料では、南千住町、三河島町、尾久町、日暮里町をもとに昭和7年の1932年に荒川区が成立した流れを確認できます。
そして昭和39年の1964年7月1日には、東尾久・西尾久で現在につながる住居表示が実施されました。
「おぐ」という名前は、行政区分や漢字を変えながら長い時代を生き残ってきたことになります。
「尾久」の語源はどこから来た?代表的な由来説を比較
尾久の語源を考えるときは、すべての説明を同じ確かさで並べないことが大切です。
現時点で確認できる内容を整理すると、次のようになります。
| 内容 | 確認状況 |
|---|---|
| 1241年の「犬食名」 | 『吾妻鏡』の記載として確認できる |
| 犬食を大食の誤記とする説明 | 地域の言い伝えとして荒川区資料に掲載 |
| 大食から「おぐ」になったという説明 | 言い伝えであり確定していない |
| 1399年の「小具郷」 | 文書名と年月日まで確認できる |
| 「小具」「越具」の異表記 | 荒川区資料で確認できる |
| 豊島郡の「奥」が語源 | 今回確認した公的資料では確定できない |
| 江戸の「奥」が語源 | 中世の「小具郷」があるため単純には説明できない |
| 川や地形の「奥」が語源 | 地形の事実は確認できるが語源との直接関係は確認できない |
「犬食・大食」から「おぐ」に変化したとする説
尾久の語源を考えるうえで最も印象に残るのが、「犬食」「大食」に関係する話です。
『吾妻鏡』仁治2年、1241年4月25日条には、「武蔵国豊嶋庄犬食名」と記されています。
荒川区に伝わる説明では、この「犬」は「大」の書き間違いで、「大食」を「おおぐい」と読み、それが「おぐ」になったとされています。
音だけを見ると、たしかに「おおぐ」から「おぐ」へ縮まる変化は想像しやすいでしょう。
しかし、地名の由来として重要なのは「想像できるか」ではなく、「史料で連続して確認できるか」です。
現状では、「犬食」が確実に「大食」の誤記だったことや、「大食」から「小具」、さらに現在の「尾久」へ変化したことまで証明する連続した史料は確認できません。
荒川区の公式アーカイブも、この話を地域の言い伝えとして扱っています。
したがって、「大食説が尾久の由来で確定」とするのではなく、古い記録をもとに残された一つの伝承として知っておくのが適切です。
武蔵国豊島郡の「奥」が語源になったとする説
尾久が属していた豊島郡の位置関係から、「郡の奥にあったことが『おぐ』につながったのではないか」と考えることもできます。
ただし、今回確認した荒川区や関連自治体の公開資料では、「豊島郡の奥」が地名誕生の直接の理由だったことを示す一次的な記録は確認できません。
一方、1399年には「武蔵国豊島郡小具郷」という表記が実際の文書に残っています。
つまり、「豊島郡に小具郷があった」ことは確認できますが、「豊島郡の奥だから小具または尾久と名付けられた」とまでは言えないのです。
地名の由来を考える際には、この一歩の差が重要です。
「場所が奥にあるように見える」という地理的な印象と、「奥という言葉から地名が成立した」という歴史的事実は同じではありません。
尾久の場合は、中世の「小具」という表記が実在する以上、現在の「尾久」から逆算して「奥」が語源だと決めるのは慎重であるべきでしょう。
江戸から見て「奥」にある土地だったとする説
「江戸から見て奥にあった」という説明も、現在の東京の地図を見ると理解しやすく感じます。
尾久は上野や日暮里より北側に位置しているため、都心から離れた「奥」というイメージと結び付けやすいからです。
しかし、年代を確認すると大きな問題があります。
「小具郷」という名称が文書に現れるのは1399年です。
徳川家康が江戸に入ったのは1590年なので、それより約190年前から「おぐ」につながる地名が存在していました。
江戸という地名自体は家康以前からありましたが、少なくとも「徳川時代に江戸市街が発展し、その奥にあるから尾久と名付けられた」という説明では時系列が合いません。
さらに中世の表記は「尾久」ではなく「小具」です。
そのため、「江戸の奥だから尾久」という分かりやすい説明だけで、地名の起源を説明することは難しいのです。
川や地形の「奥」と関係すると考える説
尾久は隅田川に近く、昔は多くの水路が通る地域でした。
荒川区立図書館が紹介している上尾久村村絵図からも、農村だった尾久に用水路や排水路が張り巡らされていた様子が分かります。
荒川区全体も大部分が平坦で、北東部を回り込むように隅田川が流れる地形です。
こうした水辺の地形を見ると、「川や水路の奥」と「おぐ」を関連付けて考えたくなるかもしれません。
しかし、尾久の地形が水と深く関係していたという事実と、その地形が「おぐ」という名称を生んだという話は分ける必要があります。
今回確認した公的資料では、「川の奥」「入り江の奥」といった地形が直接の語源だったことを示す史料は確認できません。
そのため、地形との関係は想像できても、由来として断定する段階にはないと考えるのが適切です。
結局どの説が有力?史料で確認できる事実と推測を整理
では、尾久の由来について何を一番確かな情報として覚えておけばよいのでしょうか。
最も重要なのは、「語源そのものは確定していないが、『おぐ』につながる名称は中世までさかのぼれる」という点です。
特に1399年の上杉禅助(朝宗)施行状に「小具郷」と記されていることは、具体的な年月日と文書まで分かる重要な史料です。
1241年の『吾妻鏡』にある「犬食名」も古い記録ですが、そこから「大食」「おぐ」へ変化したという部分には伝承による解釈が含まれます。
一方、「豊島郡の奥」「江戸の奥」「川の奥」という説明については、今回確認した一次性の高い公的資料だけでは地名の起源として確定できません。
したがって、現時点で「これが尾久の語源です」と一つだけ選ぶのは難しいでしょう。
むしろ尾久という地名のおもしろさは、現在の二文字からは想像できない「小具」という中世の姿が残っているところにあります。
語源が完全には分からなくても、少なくとも600年以上前に「小具郷」と呼ばれていたことは、尾久の歴史を考える確かな出発点になります。
なぜ地名は「おぐ」なのにJR尾久駅は「おく」と読む?
東尾久・西尾久はどちらも「おぐ」と読む
現在の荒川区には、東尾久と西尾久という町名があります。
どちらの「尾久」も「おぐ」と読みます。
東尾久と西尾久で現在につながる住居表示が実施されたのは、昭和39年の1964年7月1日です。
地域の名称を見ても、「おぐ」の読みは明確です。
尾久八幡神社は「おぐはちまんじんじゃ」、尾久の原公園は「おぐのはらこうえん」とされています。
尾久本町通りも「おぐほんちょうどおり」です。
つまり、「おぐ」は昔だけの読みではなく、現在も荒川区で正式に使われている地域の読み方です。
JR尾久駅の存在によって分かりにくくなっていますが、「東尾久」「西尾久」を「ひがしおく」「にしおく」と読むわけではありません。
JR尾久駅だけが「おく」と読まれている
JR東日本の尾久駅は「おく」と読みます。
JR東日本の公式ページにも「尾久 おく」と明記されています。
ここで重要なのは、駅名と地域名のどちらかが現在の単純な読み間違いなのではないということです。
地域名では「おぐ」が正式であり、JRの駅名では「おく」が正式です。
しかも尾久という地域名は、駅ができるはるか以前から存在していました。
荒川区の資料では、尾久駅が開設されたのは昭和4年の1929年とされていますが、「小具郷」の記録は1399年までさかのぼります。
そのため、「駅が『おく』だから昔から地域も『おく』だった」という理解はできません。
歴史の順番で考えると、古くからの地域名「おぐ」が先に存在し、後から「おく」と読む鉄道駅が生まれたことになります。
実は尾久駅の所在地は荒川区ではなく北区
尾久駅について、もう一つ意外なのが所在地です。
「尾久」という駅名なので東尾久や西尾久の中にあると思いやすいのですが、駅があるのは東京都北区昭和町です。
北区がまとめた資料では、JR尾久駅の所在地は昭和町一丁目とされ、駅施設の住所として「昭和町1-2-16」が記されています。
荒川区の公式アーカイブでも、尾久駅が開設された場所は当時の滝野川町側だったことが触れられています。
現在の位置関係で整理すると、東尾久と西尾久は荒川区、JR尾久駅は北区です。
ただし、駅は西尾久に近く、尾久地域と地理的なつながりが深い場所にあります。
駅名と町名だけを見ていると混乱しますが、「行政区域をまたいで近接している」と理解すると分かりやすくなります。
1929年の尾久駅開業時に「おく」とされた理由
尾久駅が開設されたのは昭和4年の1929年です。
では、古くから地域では「おぐ」と呼ばれていたのに、なぜ駅名は「おく」になったのでしょうか。
ここには多くの人が最も知りたい疑問がありますが、明快な答えを断定するのは難しい状況です。
今回、JR東日本、荒川区、北区の公開資料を確認しましたが、1929年の開業時に誰がどのような判断で「おく」という読みを採用したのかを明確に説明する一次資料は確認できませんでした。
確実に確認できるのは、地域名の「おぐ」が駅開設以前から存在していたことと、現在のJR東日本が尾久駅を正式に「おく」としていることです。
理由が不明だからといって、もっともらしい説明で空白を埋める必要はありません。
歴史には資料が残っておらず、現在の公開情報だけでは分からないこともあります。
尾久駅の読み方については、「地名と駅名が異なることは確認できるが、駅名決定の詳しい理由までは確定できない」と覚えておくのが最も正確です。
「尾久=おく」と勘違いされやすくなった背景
現在、「尾久」という漢字を見て「おく」と読む人がいても不思議ではありません。
JRの駅名として「尾久(おく)」が正式に使われ、駅の案内や時刻表でも日常的に目にするからです。
一方、地域では東尾久、西尾久、尾久八幡神社、尾久の原公園、尾久本町通りなど、「おぐ」と読む名称が数多く残っています。
つまり、「おぐ」が古くて「おく」が間違いという単純な話でもありません。
現在では、地域名は「おぐ」、JRの駅名は「おく」と、それぞれ別の正式名称として定着しています。
地名の読み方を知りたい場合は駅名ではなく町名を見ることがポイントです。
「尾久駅はおく、東尾久・西尾久はおぐ」とセットで覚えると迷いにくくなります。
尾久の地名は現在までどう受け継がれた?知っておきたい豆知識
昔の尾久は現在より広い地域を指していた
現在の尾久といえば、荒川区の東尾久・西尾久を中心に考えるのが自然です。
しかし、中世の「小具郷」は現在より広い範囲を含んでいたと考えられています。
荒川区の歴史資料では、現在の尾久だけでなく、田端のお山の東側から金杉、現在の東日暮里や台東区根岸付近まで広がっていた様子が紹介されています。
その後、地域は上尾久、下尾久、舟方などへ分かれていきました。
これは地名を調べるときに忘れやすい点です。
現在の住所は行政上の都合で明確に境界が決められていますが、中世や江戸時代の郷・村の範囲は現在の町丁目とは一致しません。
「昔の尾久はどこだったのか」と考える場合は、現在の荒川区だけを見て終わらないことが大切です。
尾久の地名が長く残った一方で、それが指す地域の範囲は時代によって変化してきました。
尾久町から荒川区が誕生するまでの変化
近代になると、尾久は行政上の町村名としても使われるようになります。
荒川区の沿革資料では、明治22年の1889年に北豊島郡尾久村が存在していたことが確認できます。
大正期には尾久町となり、昭和7年の1932年には南千住町、三河島町、日暮里町とともに荒川区へつながりました。
尾久が大きく姿を変えたのは、この前後の時期です。
関東大震災後には都心から人口が流入し、荒川区内では農地の宅地化や商工業化が進みました。
尾久では大正3年の1914年に、現在の西尾久にある碩運寺で井戸水がラジウム鉱泉と分かり、「寺の湯」として湯治場が始まりました。
その後、温泉旅館や料理屋が増え、尾久地域の発展につながりました。
中世の「小具郷」から江戸時代の農村、そして近代都市の一部へと姿を変えても、「おぐ」という地域名は残り続けたのです。
現在は東尾久と西尾久に名前が残っている
現在の荒川区には、町名として「東尾久」と「西尾久」があります。
一方、単独で「尾久」という現在の町名はありません。
東尾久と西尾久で住居表示が実施されたのは、1964年7月1日です。
ただし、昔の尾久地域がすべて現在の東尾久と西尾久に収まったわけではありません。
その痕跡が分かりやすく残っているのが、町屋六丁目にある「尾久第二児童遊園」です。
荒川区によると、この周辺は昭和38年の1963年に町名が変わるまで「尾久十丁目」と呼ばれていました。
町名変更後も、地域の歴史を後世へ伝えるため、地元からの要望によって公園名に「尾久」が残されました。
現在の住所だけでは見えなくなった古い地名が、公園や施設の名称として残っているわけです。
地図の名前を丁寧に見ていくと、昔の行政区域の痕跡を見つけられるのも尾久のおもしろいところです。
駅名・町名・施設名で「おぐ」と「おく」が混在する理由
現在の尾久周辺では、同じ漢字に二つの読み方があります。
東尾久、西尾久、尾久八幡神社、尾久の原公園、尾久本町通りなど、地域に根付いた名称の多くは「おぐ」と読みます。
一方、JR尾久駅は「おく」です。
これを「どちらが正しいか」という問題だけで考えると混乱します。
歴史的な地域名としては「おぐ」が受け継がれ、その後1929年に開業した鉄道駅では「おく」という読みが定着した、と時系列で見ると理解しやすくなります。
さらに駅は現在の北区昭和町にあるため、行政上も東尾久・西尾久とは別の場所です。
なぜ開業時に駅だけ「おく」とされたのかという決定的な理由は、今回確認した公開資料では分かりません。
つまり、現在の読み方の混在は、一つのルールで統一された結果ではなく、長い歴史の中でそれぞれの名称が定着した姿だと考えると分かりやすいでしょう。
尾久の由来から見えてくる東京の地名のおもしろさ
尾久の歴史をたどると、地名は現在の漢字を見ただけでは分からないことがよく分かります。
「尾久」という文字だけを見れば、「奥」や「尾」と結び付けて意味を考えたくなります。
しかし、中世の記録には「小具」が現れ、別の資料では「越具」という表記も残っています。
さらに古い1241年の『吾妻鏡』には、尾久と結び付ける伝承が残る「犬食名」が登場します。
江戸時代には上尾久村、下尾久村などがあり、明治には尾久村、大正期には尾久町、現在は東尾久と西尾久へ名前が受け継がれています。
漢字も行政区域も大きく変わったのに、「おぐ」という音が長い年月を越えて残っていることが分かります。
東京は新しい建物が次々と建つ都市ですが、住所の中には中世の地名につながる名前も生きています。
尾久は、普段の町名から何百年もの時間をさかのぼれる、東京の地名のおもしろさを感じさせてくれる場所です。
「尾久」地名の由来まとめ
尾久という地名は「おぐ」と読み、現在は荒川区の東尾久・西尾久などにその名前が受け継がれています。
地名の語源については、現在まで一つの答えに確定していません。
史料上で特に重要なのは、応永6年の1399年11月12日付「上杉禅助(朝宗)施行状」に、「武蔵国豊島郡小具郷内」と記されていることです。
これによって、現在の「おぐ」につながる名称が少なくとも600年以上前までさかのぼれることが分かります。
さらに『吾妻鏡』仁治2年、1241年4月25日条には「武蔵国豊嶋庄犬食名」という記録があります。
「犬」が「大」の書き間違いで、「大食」が「おぐ」になったという説明も荒川区に伝わっていますが、これは言い伝えであり、語源として確定したものではありません。
また、現在の漢字から「豊島郡の奥」「江戸の奥」「川の奥」と考えることはできますが、今回確認した公的資料だけでは、いずれも地名誕生の直接の理由として確定できません。
特に「江戸の奥」という説明は、徳川家康の江戸入府より約190年前の1399年に「小具郷」が確認できることから、単純に地名の起源とは言い切れません。
もう一つ覚えておきたいのが、「おぐ」と「おく」の違いです。
荒川区の東尾久・西尾久は「おぐ」ですが、JR東日本の尾久駅は正式に「おく」と読みます。
しかもJR尾久駅は荒川区ではなく、現在の北区昭和町にあります。
尾久駅が開業したのは1929年ですが、なぜ駅だけ「おく」という読みになったのかについて、今回確認した公的な公開資料では決定的な理由まで確認できませんでした。
尾久の由来にはまだ解けていない部分があります。
だからこそ、「江戸の奥だったから」という一言で終わらせるより、「小具」「越具」「犬食名」といった古い記録をたどっていく方が、この地名の本当のおもしろさが見えてきます。
何気なく使われている「東尾久」「西尾久」という住所の中には、中世までつながる東京の歴史が残っているのです。
