甘辛い味が染み込んだ牛肉を、溶き卵につけて味わうすき焼き。
日本を代表する料理のひとつですが、「そもそも、すき焼きの『すき』って何?」「なぜ煮て食べるのに『焼き』なの?」と聞かれると、意外と答えに困るのではないでしょうか。
実は、その名前をたどっていくと、田畑を耕す農具の「鋤(すき)」が登場します。
江戸時代の料理書には、鋤を火にかけ、その金属部分で鳥や魚などを焼く「鋤焼」という調理法が記録されています。
ただし、昔の鋤焼と現在の牛肉を使ったすき焼きは、まったく同じ料理ではありません。
江戸時代の鋤焼、幕末の開港、横浜で広まった牛鍋、明治時代の牛肉ブームなどが長い年月の中で重なり、現在のすき焼き文化へとつながっていきました。
この記事では、すき焼きの名前の由来を入り口に、江戸時代の鋤焼から牛鍋、関東風と関西風の違いまで、歴史資料を確認しながらわかりやすく紹介します。
「みんなが好きだから、すき焼き」というわけではなかった名前の秘密を知ると、いつものすき焼きが少し違って見えてくるはずです。
すき焼きの語源・由来とは?「すき」の意味からわかりやすく解説
「すき焼き」の「すき」は「好き」という意味ではない
「すき焼き」という名前だけを見ると、「みんなが好きな料理だから、この名前になったのでは?」と思いたくなるかもしれません。
しかし、一般的に語源として考えられている「すき」は、好みを表す「好き」ではありません。
有力なのは、田畑を耕すために使われてきた農具の「鋤(すき)」に由来するという説です。
国立国語研究所も、「すき焼き」の「すき」は農具の鋤で、その上で調理したことから名前がついたとされることを紹介しています。
この説明が興味深いのは、単に「鋤という漢字を当てたから」という話ではないところです。
江戸時代の料理書には、実際に鋤を熱して、その上で食材を焼く料理が記録されています。
現在のすき焼きでは浅い鉄鍋を使うため、農具の鋤を連想する人はほとんどいないでしょう。
ところが、名前だけは昔の調理風景を現在まで残している可能性があります。
料理は時代とともに材料や作り方が変わりますが、名前は意外なほど長く残ることがあります。
すき焼きの「すき」も、そのような食文化の歴史を伝える言葉のひとつと考えるとわかりやすいでしょう。
農具の「鋤」で食材を焼いたことが由来とされる説
鋤は、土を掘り起こしたり田畑を耕したりするために使われる農具です。
金属部分のある鋤を火にかければ、熱した鉄板のように食材を焼くことができます。
現在から見るとかなり変わった調理法ですが、江戸時代には鋤を利用して食材を焼く料理が実際に記録されています。
重要な資料のひとつが、醍醐散人による『料理早指南』です。
国立国会図書館サーチの書誌情報では、『料理早指南』は1801年から1804年にかけて刊行された料理書であることが確認できます。
この料理書には「鋤やき」が登場し、鋤の上で鳥類を焼く調理法が記されています。
つまり、「鋤で焼くから鋤焼」という説明は、後世になって名前だけを見て作られた想像ではありません。
少なくとも江戸時代後期には、鋤という道具と「鋤焼」という料理名が結びついた調理法が存在していました。
ただし、この時代の鋤焼を現在の牛肉すき焼きと同じものだと考えるのは正確ではありません。
当時の記録に登場するのは鳥や魚、鯨などであり、現在のように牛肉や豆腐、しらたきなどを甘辛く煮る鍋料理ではなかったからです。
名前につながる古い料理と、現在のすき焼きは分けて考える必要があります。
本当に鋤を鉄板代わりにして料理していたの?
「農具で料理したという話は、本当に史料に残っているの?」と疑問に感じる人もいるでしょう。
その疑問を解く手がかりになるのが、江戸時代の複数の料理書です。
『料理早指南』には鋤で鳥類を焼く料理が登場し、江戸時代後期の資料では魚や鯨を使った鋤焼も確認できます。
高知県立高知城歴史博物館が紹介している『素人包丁』には、ハマチを三枚におろして切り、火にかけた唐鋤を油でぬぐってから身を並べて焼く調理方法が残っています。
大根おろし、醤油、唐辛子などを添えて席上で焼く料理で、現在の鍋料理というより鉄板焼きに近い姿です。
さらに1832年刊行の『鯨肉調味方』にも「鋤焼」が登場します。
国立国会図書館の書誌情報から、『鯨肉調味方』が天保3年、1832年に刊行された資料であることが確認できます。
鯨肉を扱ったこの資料でも、鋤を使った焼き料理が紹介されています。
このように一つの料理書だけでなく、異なる食材を扱う複数の資料に鋤を使った調理法が残っています。
そのため、「鋤を熱して食材を焼く料理が存在した」という点については、具体的な歴史資料から確認できます。
「すきみ」や「杉焼き」に由来する別説もある
すき焼きの語源には、農具の鋤とは異なる説も伝えられています。
そのひとつが、肉や魚を薄く切った「すきみ」に由来するという説です。
薄く切った肉を焼いたことから「すき焼き」と呼ばれるようになったのではないか、という考え方です。
調理教育の資料でも、農具の鋤に由来する説とともに、薄く切った肉である「すきみ」に関係する説が紹介されています。
さらに「杉焼き」が変化して「すき焼き」になったとする説もあります。
杉焼きは、杉で作った箱などを利用して魚介類や野菜を味噌味で調理する古い料理です。
東京都の食文化情報でも、「鋤焼き」と「杉やき」の両方が語源説として紹介されています。
ただし、ここで3つの説をすべて同じ確度で扱うのは適切ではありません。
鋤を利用した鋤焼については、1800年代初頭の『料理早指南』や1832年の『鯨肉調味方』など、実際の調理方法を確認できる史料が残っています。
一方、「すきみ」や「杉焼き」という言葉から現在の「すき焼き」という名称が成立した過程については、鋤焼ほど直接的な史料で追えるわけではありません。
そのため、鋤説を軸にしながら、すきみ説や杉焼き説も存在すると理解するのがよいでしょう。
結局どの説が有力?すき焼きの語源を整理すると
すき焼きの語源を現在確認できる資料から整理すると、農具の鋤で食材を焼いた「鋤焼」に由来するという説明が最もわかりやすく、具体的な歴史資料も残っています。
1801年から1804年にかけて刊行された『料理早指南』には鋤を使った焼き料理が登場し、その後の料理書でも魚や鯨などを鋤で焼く調理法が確認できます。
国立国語研究所も、農具の鋤の上で調理したことから「すき焼き」という名前がついたとされることを紹介しています。
一方で、薄く切った「すきみ」を語源とする説や、「杉焼き」が変化したとする説もあります。
語源は言葉が生まれた瞬間を記録した資料が残っていないことも多いため、「鋤説で100%確定している」と断定するより、「鋤を使った料理を由来とする説が有力で、ほかの説も伝えられている」と理解するほうが正確です。
| 語源説 | 内容 | 歴史資料との関係 |
|---|---|---|
| 鋤説 | 農具の鋤を熱し、その上で食材を焼いた | 江戸時代の料理書に鋤を使った具体的な調理法が残る |
| すきみ説 | 薄く切った肉や魚の「すきみ」を焼いた | 語源説のひとつとして伝えられている |
| 杉焼き説 | 古い料理「杉焼き」の名称が変化した | 杉焼きそのものは古い料理として存在するが、名称変化の過程は明確ではない |
すき焼きの名前について誰かに短く説明するなら、「農具の鋤で肉や魚を焼いた鋤焼が有力な由来」と答えれば、大きく外すことはありません。
すき焼きはいつからある?江戸時代の「鋤焼」から歴史をたどる
江戸時代には現在とは違う「すき焼き」が存在していた
すき焼きの歴史を調べると、「江戸時代から存在する」という説明と、「幕末から明治時代に広まった」という説明の両方が出てきます。
これは、どちらかが間違っているわけではありません。
江戸時代には「鋤焼」という名前の焼き料理が存在しましたが、現在の牛肉を中心としたすき焼きとは料理の姿が違っていたからです。
古い鋤焼では、熱した鋤や鉄器を使って鳥や魚、鯨などを焼いていました。
一方、現在のすき焼きでは薄切りの牛肉とねぎ、豆腐、しらたき、春菊などを浅い鍋で甘辛く調理します。
農林水産省が紹介する東京都のすき焼きも、牛肉や野菜を醤油、砂糖、酒などで味付けする料理です。
つまり、名前につながる料理の歴史は江戸時代までさかのぼれるものの、現在と同じ料理がそのまま200年以上続いているわけではありません。
すき焼きは、食材、調理器具、味付け、食べ方を変化させながら現在の姿になった料理です。
この違いを最初に理解しておくと、その後の牛鍋との関係も整理しやすくなります。
1800年代初めの『料理早指南』に登場する「鋤焼」とは
すき焼きの歴史を考えるうえで重要なのが、醍醐散人による『料理早指南』です。
国立国会図書館サーチには、1801年、1802年、1804年に刊行された記録が残っています。
ここに記された「鋤やき」は、鋤を使って鳥などを焼く料理でした。
現在のように鍋の中へ多くの具材を入れ、割り下で煮る料理ではありません。
鋤の金属部分を熱し、食材をその上で焼くという極めてシンプルな料理です。
この記録が重要なのは、「鋤焼」という名前と「鋤を使って焼く」という調理方法の両方が結びついて確認できることです。
そのため、農具の鋤を語源とする説を考えるうえで有力な材料になります。
ただし、『料理早指南』に登場する鋤焼が「すき焼きという言葉の歴史上最初の使用例」とまで断定する必要はありません。
書物に記録される以前から、同じ言葉や似た料理が人々の間で使われていた可能性があるためです。
歴史資料から言えるのは、少なくとも1800年代初頭には、鋤を利用した「鋤焼」という料理が料理書に記録されていたということです。
『素人包丁』や『鯨肉調味方』にも鋤を使った料理が残っている
鋤を調理器具として使った記録は、『料理早指南』だけではありません。
高知県立高知城歴史博物館が紹介している『素人包丁』には、ハマチを鋤の上で焼く料理が記されています。
火にかけた唐鋤を熱し、油を使って表面を整えてから、切ったハマチを並べて焼く方法です。
大根おろしや醤油、唐辛子などと一緒に食べるため、現代の感覚では鉄板焼きや焼き魚に近い料理といえるでしょう。
さらに1832年の『鯨肉調味方』では、鯨の部位ごとにさまざまな調理法が紹介され、その中に「鋤焼」があります。
ここでも現在の牛肉すき焼きとは異なり、鯨肉を焼く料理として登場します。
鳥、魚、鯨という異なる食材に鋤焼という方法が使われていることから、当時の「鋤焼」は特定の牛肉料理だけを指す言葉ではなかったことが見えてきます。
「鋤を使って焼く」という調理方法そのものが、名前の重要な要素だったと考えると理解しやすいでしょう。
牛肉が一般的でなかった時代には何を焼いていた?
現在では「すき焼き=牛肉」というイメージが強いため、牛肉以外の鋤焼が存在したことに驚く人もいるでしょう。
江戸時代の料理書を見ると、鳥や魚、鯨などを鋤で焼く例が確認できます。
その背景には、日本の肉食文化の長い歴史があります。
675年には天武天皇によって、一定期間、牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食べることなどを禁じる命令が出されました。
ここで注意したいのは、「675年から明治時代まで日本人は肉を一切食べなかった」と考えるのは正確ではないことです。
675年の命令は対象となる動物と期間が定められており、すべての獣肉を一年中禁止する内容ではありませんでした。
その後も宗教観、殺生に対する考え方、牛や馬を農耕や運搬に利用する社会事情などが重なり、特に牛肉を日常的に食べる習慣は広まりにくい状態が続きました。
一方で、猪や鹿などの獣肉が食べられた記録も残っています。
鯨も江戸時代には各地で食用にされ、料理書には多様な調理方法が残されています。
そのため、江戸時代の鋤焼は「牛肉がないから仕方なく別のものを焼いていた」というより、鳥や魚、鯨などさまざまな食材を使う焼き料理だったと理解するほうが自然です。
江戸時代の鋤焼と現在のすき焼きは別物だった
江戸時代の鋤焼と現代のすき焼きを比べると、同じ名前につながる料理とは思えないほど違いがあります。
江戸時代の鋤焼は、基本的に熱した鋤や鉄器の上で食材を焼く料理でした。
使用される食材も鳥、魚、鯨などさまざまです。
一方、現在のすき焼きは牛肉を中心とし、ねぎ、豆腐、しらたき、春菊などを醤油や砂糖を使った甘辛い味で調理します。
現在の姿へ近づくうえで大きな役割を果たしたのが、幕末から明治に広まった「牛鍋」です。
歴史の流れを大まかに整理すると、次のようになります。
| 時期 | すき焼きにつながる主な出来事 |
|---|---|
| 1801~1804年 | 『料理早指南』に鋤を使った焼き料理が記録される |
| 1800年代初頭 | 『素人包丁』などにも魚を鋤で焼く料理が登場 |
| 1832年 | 『鯨肉調味方』に鯨を使った「鋤焼」が記録される |
| 1859年 | 横浜港が開港する |
| 1862~1863年ごろ | 横浜で伊勢熊が牛肉店を開いた記録が残る |
| 明治初期 | 牛鍋が都市部を中心に人気を集める |
| 1871~1872年 | 『安愚楽鍋』が刊行され、牛鍋文化が作品に描かれる |
| 大正~昭和初期 | 関東でも「すき焼き」という呼称が広がっていく |
この流れを見ると、すき焼きはある日突然発明された料理ではないことがわかります。
古い鋤焼の文化と近代の牛肉料理が長い時間をかけて重なり、現在の形へ近づいていったのです。
なぜ牛肉料理になった?「牛鍋」から現在のすき焼きが生まれるまで
開国によって牛肉を食べる文化が広がった
すき焼きが現在のような牛肉料理へ変化していくうえで、大きな転換点になったのが幕末の開国です。
横浜港は1859年に開港しました。
開港後は外国人居留地が形成され、西洋の生活文化とともに牛肉に対する需要も増えていきました。
それまで日本では、牛は農耕や運搬を支える重要な労働力でした。
牛肉を日常的に食べる習慣も、現代ほど一般的ではありませんでした。
しかし開港地では、外国人向けの牛肉供給が必要になります。
この変化が、日本人にとっても牛肉を身近な食材へ変えていくきっかけのひとつになりました。
とはいえ、開港した途端に日本人全員が牛肉を喜んで食べ始めたわけではありません。
長く続いた食習慣や価値観があったため、牛肉に抵抗を感じる人もいました。
そこで重要になったのが、日本人が慣れ親しんだ味噌や醤油などで牛肉を調理する方法です。
新しい食材を昔から親しまれていた味付けで食べる「牛鍋」は、牛肉文化を広げる大きな存在になりました。
横浜で広まった「牛鍋」はどんな料理だった?
牛鍋の歴史を語るうえで欠かせない場所が横浜です。
横浜市立図書館の歴史年表には、1862年から1863年ごろ、伊勢熊が入船町で初めて牛肉店を開いたという記録があります。
農林水産省の神奈川県の郷土料理資料でも、1862年に伊勢熊が牛鍋屋を始めた歴史が紹介されています。
牛鍋は、牛肉などの具材を味噌や醤油を使ったたれで煮込む料理です。
農林水産省では、肉を焼いてから煮るすき焼きに対し、牛鍋は最初から具材をたれで煮る料理として整理されています。
つまり、現在のすき焼きとかなり似ていますが、歴史的には同じ名前、同じ作り方で始まったわけではありません。
当時まだなじみの薄かった牛肉を、味噌や醤油という日本人に身近な調味料で食べられるようにしたことも、牛鍋が受け入れられていった理由のひとつと考えられます。
新しい西洋の食材をそのまま食べるのではなく、日本の味へ変えて取り込んだところが面白い点です。
その後、牛鍋は横浜だけでなく東京などにも広がり、明治時代を象徴する料理のひとつになっていきました。
明治時代に牛鍋が文明開化を象徴する料理になった
明治時代に入ると、牛肉を食べることには単なる食事以上の意味が加わりました。
西洋の文化や技術を積極的に取り入れようとする文明開化の中で、牛肉は「新しい時代」を感じさせる食べ物のひとつになったのです。
その時代の空気を伝えている作品が、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』です。
国立国会図書館には、明治4年から5年、1871年から1872年にかけて刊行された『安愚楽鍋』が保存されています。
この作品では牛鍋屋を舞台に、人々の会話や当時の世相が描かれています。
牛鍋が文学作品の題材になるほど、都市の新しい食文化として注目されていたことがわかります。
ただし、明治維新を境に日本の肉食文化が完全に別物へ切り替わったわけではありません。
江戸時代にも獣肉を食べる文化は存在しており、牛肉を食べた記録も残っています。
大きく変わったのは、牛肉を公然と扱う店が増え、都市の食文化として急速に目立つようになった点です。
牛鍋は、昔からの味噌や醤油と新しい牛肉文化が出会った、まさに明治らしい料理だったといえるでしょう。
初期の牛鍋は現在の甘辛いすき焼きとは少し違った
現在のすき焼きといえば、醤油と砂糖を中心とした甘辛い味を思い浮かべる人が多いでしょう。
しかし、初期の牛鍋では味噌を使った味付けも重要でした。
農林水産省の資料では、初期には牛肉特有のにおいをやわらげるため、味噌を使った味付けが主流だったとされています。
その後、肉の品質や流通環境が変化すると、豆腐やしらたきなどの具材が加わり、醤油、砂糖、酒などを使う調理法へ変化していきました。
横浜に伝わる牛鍋でも、味噌や醤油を使ったたれで牛肉を煮る食文化が紹介されています。
この歴史を見ると、「昔の牛鍋がそのまま現在のすき焼きになった」と考えるのも少し単純すぎることがわかります。
料理は人々の好みだけでなく、食材の品質、流通、調味料、調理器具などによって変化します。
牛鍋も時代に合わせて変化し、同時に関西で使われていたすき焼きという名前や調理方法と影響し合いました。
現在のすき焼きは、そうした長い変化の先にある料理なのです。
牛鍋と鋤焼が重なり現在のすき焼き文化につながった
現在のすき焼きの歴史を理解するなら、「古い鋤焼」と「近代の牛鍋」という二つの流れを考えるとわかりやすくなります。
江戸時代には、鋤や鉄器を利用して鳥や魚、鯨などを焼く鋤焼が存在しました。
幕末から明治にかけては、横浜や東京を中心に牛肉を煮る牛鍋が広がりました。
この二つが、ある日どこかで一つの料理として発明されたと考える必要はありません。
地域や店によって名前や調理方法が異なる時代が続き、それらが少しずつ影響し合いました。
関西では牛肉を焼いて調味していく料理が「すき焼き」と呼ばれ、関東では牛肉をたれで煮る「牛鍋」が広く親しまれました。
やがて関東でも「すき焼き」という名称が広く使われるようになりますが、牛鍋から続く煮る調理文化は家庭料理の中に残りました。
その結果、現在も関西風と関東風では作り方に違いがあります。
つまり、すき焼きの歴史は「鋤焼が牛肉料理へ一直線に進化した」と考えるより、古い焼き料理と近代の牛鍋文化などが重なって現在の姿になったと考えるほうが、実際の流れを理解しやすいでしょう。
関東と関西ですき焼きの作り方が違うのは歴史が関係している
関東の「牛鍋」と関西の「すき焼き」は歩んできた歴史が違う
すき焼きには、現在でも関東風と関西風があります。
同じ料理名なのに作り方が違うのは、それぞれの地域で異なる食文化が育ったことと関係しています。
江戸時代の関西には、鋤などを使って食材を焼く料理文化がありました。
一方、幕末から明治期の横浜や東京では、牛肉を味噌や醤油などのたれで煮る牛鍋が広まりました。
そのため、関西では「まず肉を焼く」という特徴が残りやすく、関東では「たれの中で煮る」という牛鍋の影響を感じさせる方法が家庭料理として広がりました。
ただし、この違いを絶対的なルールだと考える必要はありません。
長い歴史の中で人が移動し、飲食店同士も影響し合っているため、現在では東西の作り方が混ざっています。
関西でも割り下を使う家庭がありますし、東京の専門店でも肉を最初に焼く店があります。
それでも、関東と関西の代表的な調理法を比べると、それぞれの地域がたどってきた歴史を感じることができます。
関西風は牛肉を焼いてから砂糖や醤油で味付けする
代表的な関西風すき焼きでは、鍋を熱して牛脂をなじませ、まず牛肉を焼きます。
そこへ砂糖や醤油などを加えて肉に味を付け、その後に野菜や豆腐などを加えていきます。
最初から多くの調味液を入れるのではなく、食材から出る水分なども見ながら味を調整していくのが特徴です。
農林水産省の資料でも、関西では牛肉を焼いた後に調味料や野菜を入れる方法が紹介されています。
肉を最初に焼くため、香ばしさを楽しみやすく、「すき焼き」という名前に残る「焼き」を実感できる作り方でもあります。
ただし、砂糖を入れる順番や醤油の量、だしや酒を加えるかどうかなどは家庭や店によって違います。
関西風だから必ず一つの作り方になるわけではありません。
地域料理は、教科書のレシピのように全家庭で完全に統一されているものではないからです。
あくまで「肉を先に焼き、鍋の中で調味していく傾向が強い」と理解するとよいでしょう。
関東風は「割り下」を使って煮るのが代表的
関東風すき焼きの大きな特徴として知られているのが「割り下」です。
割り下とは、醤油、砂糖、酒、みりん、だしなどをあらかじめ合わせた調味液です。
関東の家庭では、割り下を鍋で煮立ててから牛肉や野菜などを加える調理方法が広く知られています。
農林水産省が紹介する東京都のすき焼きでも、割り下を煮立て、牛肉や野菜を入れて調理する方法が示されています。
このスタイルには、明治期に関東で広まった牛鍋の「たれで牛肉を煮る」という調理文化との共通点があります。
一方、現在の東京のすき焼き専門店では、熱した鍋で牛肉を焼いてから具材や調味料を加える方法も定着しています。
そのため、「関東では肉を絶対に焼かない」と考えるのは正確ではありません。
家庭料理では割り下を先に使うスタイルが代表的で、専門店では関西に近い作り方も見られると考えるとよいでしょう。
関東で「すき焼き」という呼び名が広がったのはいつ?
明治時代の関東では、牛肉を鍋で調理する料理を「牛鍋」と呼ぶ文化が広く知られていました。
現在のように全国で「すき焼き」という名称が当たり前だったわけではありません。
名称が広がっていく歴史を説明するとき、よく登場するのが1923年の関東大震災です。
農林水産省では、震災によって東京の牛鍋店が大きな被害を受け、その後、関西で使われていた「すき焼き」という呼び名が関東に伝わった経緯を紹介しています。
ただし、「1923年の震災を境に牛鍋という名前が突然なくなり、すべてすき焼きになった」と考える必要はありません。
料理名は社会全体で少しずつ変わるもので、古い名称がすぐに消えるとは限らないからです。
実際、現在でも横浜などでは歴史ある料理として「牛鍋」という名称が使われています。
そのため、関東大震災は関西の調理法や「すき焼き」という呼び名が関東へ広がる重要な契機のひとつだった、と理解するのが適切です。
長い時間をかけて「すき焼き」という名前が全国的に定着していったと考えると、実際の食文化の変化をイメージしやすくなります。
名前は同じになっても東西の調理法には違いが残った
全国で「すき焼き」という名前が使われるようになっても、関東と関西の作り方が完全に同じになったわけではありません。
関西では、牛肉を先に焼いて砂糖や醤油などで味を付けてから、野菜を加える方法が代表的です。
関東では、家庭を中心に割り下を先に煮立て、肉や野菜を加えていく方法が広く親しまれています。
同じ名前の料理なのに方法が違うのは、それまで各地域で培われてきた食文化が残ったからです。
お雑煮の味付けや餅の形が地域によって違うのと似ています。
ただし現代では、人の移動、テレビ、料理本、インターネット、飲食店などによって各地域の作り方が共有されています。
そのため、関西で割り下を使ったり、関東で肉を先に焼いたりしても不思議ではありません。
「どちらが本当のすき焼きなのか」と勝ち負けを決める必要もありません。
むしろ、一つの料理名の中に異なる歴史が残っているところに、すき焼きの面白さがあります。
すき焼きの語源・由来でよくある疑問をまとめて解決
すき焼き発祥の地は関西?それとも横浜?
すき焼きの発祥地を一つだけ決めようとすると、少し難しい問題にぶつかります。
何を「すき焼きの誕生」と考えるかによって、答えが変わるからです。
農具の鋤を使った「鋤焼」という古い料理の歴史を見るなら、江戸時代の料理書までさかのぼることができます。
一方、現在につながる牛肉の鍋料理が広がった場所としては、幕末の横浜が非常に重要です。
横浜市立図書館の年表には、1862年から1863年ごろ、伊勢熊が入船町で初めて牛肉店を開いた記録があります。
横浜港は1859年に開港しており、外国人居留地などを背景に牛肉の需要が高まっていました。
その後、牛鍋は横浜や東京で人気となり、関西の「すき焼き」という呼び名や調理文化とも影響し合っていきます。
そのため、「すき焼きは関西発祥」「横浜発祥」のどちらかだけを絶対的な正解とすると、歴史の一部分しか説明できません。
名前につながる鋤焼の歴史と、現在の牛肉鍋につながる牛鍋の歴史を分けて考えるのが、最もわかりやすい整理方法です。
「すき焼き」と「牛鍋」は同じ料理なの?
現在のすき焼きと牛鍋は非常によく似ていますが、歴史的には同じ料理名から始まったわけではありません。
古い鋤焼は、鋤などの鉄器を使って鳥、魚、鯨などを焼く料理でした。
牛鍋は幕末から明治にかけて横浜や東京で広がった牛肉料理で、味噌や醤油などのたれを使って牛肉を煮る方法が特徴でした。
つまり、もともとは食材も作り方も異なる料理です。
その後、牛肉を食べる文化が広がり、関東の牛鍋と関西ですき焼きと呼ばれていた牛肉料理が互いに影響し合いました。
現在では、牛肉と野菜などを甘辛く調理する料理を全国的に「すき焼き」と呼ぶのが一般的です。
一方、横浜には現在も「牛鍋」という名称を受け継いだ食文化があります。
そのため、現代では非常に近い料理になっているものの、歴史をたどれば別々の流れを持っていたと理解するとよいでしょう。
なぜ「焼き」という名前なのに現在は煮て食べるの?
現在のすき焼きを見ると、「焼き」というより「煮る料理」に見えることがあります。
特に関東風では割り下を使うため、「どうして“すき煮”ではないの?」と思う人もいるでしょう。
この疑問は、昔の鋤焼を知ると理解しやすくなります。
江戸時代の鋤焼は、鋤や鉄器を熱し、鳥や魚、鯨などをその上で実際に焼く料理でした。
つまり、もともとの「焼き」は文字どおり食材を焼く調理法を表していたのです。
その後、牛肉をたれで煮る牛鍋文化などと影響し合い、現在のように鍋の中で牛肉と野菜を煮焼きするスタイルへ変化しました。
料理方法は変わっても、「すき焼き」という名前は残りました。
現在でも関西風では最初に牛肉を焼くため、「焼き」という特徴が比較的わかりやすく残っています。
何気なく使っている「焼き」という一文字が、200年以上前の料理方法につながっていると考えると、とても面白い名前です。
「鋤焼き」と「すき焼き」はどちらの表記が正しい?
「鋤焼き」と「すき焼き」は、どちらか一方だけが正しいというものではありません。
歴史上の料理や語源を説明するときには、農具の鋤との関係がわかる「鋤焼」「鋤焼き」という表記が便利です。
江戸時代の料理資料にも「鋤焼」という料理名が確認できます。
一方、現在の料理名としては「すき焼き」という表記が一般的です。
農林水産省でも、現在の料理名は「すき焼き」と表記されています。
また、語源には鋤説以外にもすきみ説や杉焼き説があるため、現代の料理を常に漢字の「鋤焼き」と書かなければならないわけではありません。
普段の文章やメニューでは「すき焼き」と書き、語源や歴史を説明するときに「鋤焼」という漢字を使うとわかりやすいでしょう。
ひらがなで書く現在の「すき焼き」と、歴史上の「鋤焼」を使い分けることで、料理の変化も説明しやすくなります。
すき焼きの語源と由来を簡単に説明すると?
誰かに「すき焼きって、どうしてこの名前なの?」と聞かれたら、次のように説明すれば十分でしょう。
すき焼きは、農具の鋤を熱して、その上で鳥や魚などを焼いた「鋤焼」が名前の有力な由来とされています。
江戸時代の料理書には実際に鋤を使って食材を焼く料理が記録されているため、単なる言葉遊びではありません。
ただし、すきみを焼いたことが由来という説や、杉焼きから名前が変化したという説もあります。
また、江戸時代の鋤焼は現在の牛肉すき焼きとはかなり違う料理でした。
幕末に横浜が開港すると牛肉文化が広がり、牛鍋が人気となります。
その後、関東の牛鍋文化と関西のすき焼き文化などが影響し合い、現在の牛肉を中心としたすき焼きへつながりました。
「鋤で焼いた料理の名前」と「幕末から明治に広がった牛鍋」という二つの歴史を覚えておけば、すき焼きの由来をかなり正確に説明できます。
「すき焼き」の語源・由来まとめ
すき焼きの「すき」は「好き」という意味ではなく、農具の「鋤」に由来するという説が有力です。
1801年から1804年にかけて刊行された『料理早指南』には鋤を使った焼き料理が登場し、『素人包丁』や1832年の『鯨肉調味方』などにも、鋤や鉄器を使って魚や鯨を焼く料理が残されています。
そのため、「鋤の上で焼いたから鋤焼」という説明には、具体的な歴史的背景があります。
一方で、薄く切った「すきみ」を語源とする説や、古い料理である「杉焼き」が変化したとする説も伝えられています。
語源が生まれた瞬間を記録した史料があるわけではないため、鋤説だけで完全に確定しているとまでは言い切らないほうがよいでしょう。
また、江戸時代の鋤焼は、現在の牛肉すき焼きとはかなり違う料理でした。
現在につながる牛肉文化が大きく広がったのは幕末から明治にかけてです。
1859年に横浜港が開港し、その後、横浜では牛鍋文化が発展しました。
横浜市立図書館には、1862年から1863年ごろに伊勢熊が入船町で牛肉店を開いた記録も残っています。
明治になると牛鍋は都市部で人気を集め、『安愚楽鍋』のような作品にも描かれるほど、新しい時代を象徴する料理になりました。
その後、関東の牛鍋と関西のすき焼き文化などが影響し合い、現在のすき焼きにつながっていきます。
関西では肉を先に焼いて味付けする方法、関東では家庭を中心に割り下で煮る方法が代表的なのも、こうした異なる歴史を知ると納得できます。
普段何気なく使っている「すき焼き」という四文字には、江戸時代の農具を使った調理法、幕末の開港、明治の文明開化、関東と関西の食文化まで詰まっています。
次にすき焼きを食べるとき、「この“焼き”は昔、本当に鋤の上で食材を焼いていた料理につながっているのか」と思い出せば、いつもの鍋が少し面白く見えるのではないでしょうか。
