東京・千代田区にある「紀尾井町」。
ホテルニューオータニや東京ガーデンテラス紀尾井町、上智大学などで、この名前を目にしたことがある人も多いでしょう。
ところで、「紀尾井」という少し珍しい3文字は、いったいどこから生まれたのでしょうか。
実は「紀」「尾」「井」を一文字ずつ分けると、その答えが見えてきます。
江戸時代、この地域には紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根井伊家という3つの有力大名家の屋敷がありました。
その3家から一字ずつ取って名付けられたのが紀尾井町です。
しかも調べていくと、町名が正式に生まれる前の江戸時代には、すでに「紀尾井坂」という名称が使われていたこともわかります。
現在の街にも、3家につながる土地の歴史や庭園、坂、石垣などが残されています。
この記事では、紀尾井町という名前が生まれた理由から、「紀・尾・井」が表す3家、町名ができた年代、紀尾井坂との関係、現在歩いて確かめられる場所まで、事実をもとにわかりやすく解説します。
読み終わるころには、何気なく見ていた「紀尾井町」という住所が、江戸の歴史を記録した3文字に見えてくるはずです。
紀尾井町の名前の由来は?まず結論からわかりやすく解説
「紀・尾・井」は3つの大名家から一字ずつ取った
東京都千代田区にある紀尾井町は、江戸時代にこの地域に屋敷を構えていた3つの大名家に由来する地名です。
「紀」は紀伊徳川家、「尾」は尾張徳川家、「井」は彦根井伊家から取られています。
3家の名前から一字ずつを取り、「紀尾井」と組み合わせたのが町名の由来です。
漢字を分けて考えると、名前の仕組みはとてもわかりやすくなります。
| 文字 | 由来となった家 | 江戸時代にあった屋敷 |
|---|---|---|
| 紀 | 紀伊徳川家 | 紀伊和歌山藩徳川家上屋敷 |
| 尾 | 尾張徳川家 | 尾張名古屋藩徳川家中屋敷 |
| 井 | 彦根井伊家 | 近江彦根藩井伊家中屋敷 |
千代田区が公開している町名由来板によると、安政3年にあたる1856年の絵図にも、この3家の屋敷が確認できます。
つまり、あとから有名な人物の名前を組み合わせたわけではありません。
実際にその場所を占めていた大名屋敷の記憶が、そのまま現在の住所に残った形です。
「紀尾井」という響きだけを聞くと人名のようにも感じられますが、正体は江戸の土地利用を映した地名なのです。
現在の紀尾井町には高層ビル、ホテル、大学などが並んでいます。
それでも名前を3文字に分解すると、江戸時代の街の姿が見えてきます。
紀尾井町という地名がおもしろいのは、たった3文字の中に3つの大名家の歴史がまとめて残されているところです。
「紀」は紀伊和歌山藩の紀伊徳川家
最初の「紀」は、紀伊徳川家の「紀」です。
紀伊徳川家は紀州徳川家とも呼ばれ、尾張徳川家、水戸徳川家とともに徳川御三家を構成しました。
紀州徳川家からは、8代将軍徳川吉宗と14代将軍徳川家茂が出ています。
紀尾井町周辺にあった紀伊徳川家の屋敷は上屋敷でした。
江戸の大名は、用途の異なる複数の屋敷を持つことがあり、上屋敷はその中でも中心となる藩邸でした。
この紀伊徳川家の広大な敷地は、明治になると使われ方を変えていきます。
東京ガーデンテラス紀尾井町の公式資料では、紀伊徳川家の敷地に明治期には北白川宮邸が置かれ、その後、旧李王家東京邸につながる歴史が紹介されています。
現在、その旧李王家東京邸は赤坂プリンス クラシックハウスとして保存、活用されています。
今では現代的な複合施設が広がる場所ですが、土地の履歴をたどると紀伊徳川家まで戻ることができます。
紀尾井町の「紀」は、単に紀伊国の一文字を付けたのではなく、この土地に屋敷を構えていた紀伊徳川家を記憶する文字と考えると理解しやすいでしょう。
「尾」は尾張名古屋藩の尾張徳川家
「尾」は、尾張徳川家の「尾」です。
尾張徳川家も、紀伊徳川家と同じ徳川御三家の一つでした。
尾張徳川家は徳川家康の九男、徳川義直を祖とし、名古屋を中心に尾張藩を治めた家です。
紀尾井町周辺には、その尾張徳川家の中屋敷が置かれていました。
現在の紀尾井町で「尾」の歴史につながる場所としてわかりやすいのが、上智大学周辺です。
千代田区の町名由来板では、明治以降の土地利用について、尾張徳川邸の場所が現在の上智大学につながることが示されています。
ただし、江戸時代の尾張徳川家中屋敷が、そのまま直接上智大学になったわけではありません。
上智大学は1912年に紀尾井町の校地を購入しており、購入当時には高島鞆之助らの邸宅があったことが大学の記録に残されています。
江戸時代の大名屋敷から明治期の邸宅地を経て、教育の場へと土地の役割が変わったわけです。
現在の大学キャンパスを見ただけでは尾張徳川家を連想しにくいですが、「尾」という一文字がその長い土地の歴史を現在までつないでいます。
「井」は近江彦根藩の井伊家
最後の「井」は、彦根井伊家の「井」です。
紀伊徳川家と尾張徳川家は徳川御三家ですが、井伊家は徳川姓ではありません。
井伊家は彦根藩主を務め、幕府政治でも重要な役割を担った家でした。
彦根市の資料では、彦根藩井伊家2代の井伊直孝が徳川家光を補佐し、その役割が後の大老職につながったとされています。
井伊家からは大老を務めた人物も複数出ており、幕末には井伊直弼が大老となりました。
紀尾井町周辺に置かれていたのは、井伊家の中屋敷です。
その土地の歴史を現在まで強く感じられるのがホテルニューオータニです。
ホテルニューオータニの公式記録によると、現在の敷地には江戸時代初期に加藤家の屋敷があり、その後、井伊家へ引き継がれて幕末まで中屋敷として使われました。
敷地内の日本庭園も、井伊家の時代を含む長い土地の歴史を受け継いでいます。
現在の豪華なホテルの風景と江戸時代の大名屋敷は一見すると結びつきません。
しかし「井」の意味を知っていれば、同じ土地に井伊家の歴史が重なっていることがわかります。
紀尾井町の読み方と現在の場所も確認
紀尾井町は「きおいちょう」と読みます。
「きおいまち」ではなく、最後は「ちょう」です。
東京都千代田区の西側に位置し、永田町、麹町、赤坂、四谷などに近い地域です。
現在の紀尾井町には東京ガーデンテラス紀尾井町、ホテルニューオータニ、上智大学、清水谷公園などがあります。
住所表記では紀尾井町に丁目はなく、「紀尾井町1番1号」のように町名のあとに街区符号と住居番号が続きます。
千代田区では1980年1月に紀尾井町で住居表示が実施されました。
東京ガーデンテラス紀尾井町は紀尾井町1番2号ほか、ホテルニューオータニは紀尾井町4番1号にあります。
上智大学四谷キャンパスも紀尾井町にあります。
江戸時代の3家につながる土地が、現在も一つの町の中でたどれることになります。
地名の意味を知ったあとで地図を見ると、単なる都心の住所だった紀尾井町が、歴史のまとまりとして見えてくるでしょう。
なぜ紀伊・尾張・井伊の3家がこの場所に屋敷を構えていた?
江戸時代の紀尾井町周辺は大名屋敷が並ぶ武家地だった
現在の紀尾井町は、ホテルやオフィス、大学などが集まる都心の街です。
江戸時代は、今とはかなり違う姿をしていました。
千代田区によると、紀尾井町周辺には江戸時代初期から大名屋敷が置かれていました。
現在の番町や紀尾井町周辺は江戸城の西側に位置し、御三家一門や譜代大名、将軍の警護を担う大番組などが配置された地域でもあります。
つまり、大名屋敷が偶然この場所に3軒だけ集まったわけではありません。
江戸城を中心に形成された武家地の一角に、紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根井伊家という有力な家々の屋敷が置かれていたのです。
1856年の絵図では、紀伊和歌山藩徳川家上屋敷、尾張名古屋藩徳川家中屋敷、近江彦根藩井伊家中屋敷の存在が確認されています。
現在の高層建築が並ぶ風景からは想像しにくいものの、当時は広い敷地を持つ大名屋敷が街の大きな部分を占めていました。
千代田区の景観資料では、こうした大名屋敷の敷地割が現代にも受け継がれ、ゆとりのある街並みにつながっているとされています。
紀尾井町の名前だけでなく、現在の街のスケールにも江戸時代の土地利用が影響しているわけです。
紀伊徳川家は徳川御三家のひとつ
紀伊徳川家を理解するうえで重要なのが徳川御三家です。
御三家とは尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家の3家を指します。
紀伊徳川家は紀州藩を治め、徳川将軍家と深い関係を持ちました。
特に有名なのが8代将軍徳川吉宗です。
紀州徳川家からは吉宗のほか、14代将軍徳川家茂も将軍になっています。
その紀伊徳川家の上屋敷が、現在の紀尾井町につながる地域にありました。
上屋敷が置かれていたという事実からも、この土地が紀伊徳川家にとって江戸で重要な拠点だったことがわかります。
現在の地名に「紀」の字が残ったことで、屋敷そのものが姿を消したあとも紀伊徳川家の存在は忘れられずに残りました。
紀尾井町という名前は、明治時代になってから作られました。
しかし、その材料になった歴史は江戸時代の大名屋敷にあります。
この時間差を理解すると、町名の成り立ちがより正確に見えてきます。
尾張徳川家も徳川御三家を代表する大名家
尾張徳川家も徳川御三家の一つです。
徳川家康の九男である徳川義直を祖とし、名古屋城を本拠に尾張藩を治めました。
江戸時代の大名は国元だけで暮らしていたわけではなく、江戸にも藩邸を持っていました。
尾張徳川家が紀尾井町周辺に持っていたのは中屋敷です。
紀伊徳川家と尾張徳川家という御三家のうち2家の屋敷が、同じ地域に存在していたことになります。
その間に彦根井伊家の屋敷もありました。
これが後の「紀尾井」という名前につながる大きな背景です。
現在では尾張徳川家の建物が残っているわけではありません。
それでも町名の「尾」と、現在の上智大学周辺の土地の履歴を合わせて見ると、江戸の武家地だった時代をたどることができます。
現在の大学やオフィスだけを見れば近代的な街ですが、地名を分解すればその下に江戸時代の土地利用が隠れているのです。
井伊家は江戸幕府で大きな役割を持った彦根藩主
彦根井伊家は徳川御三家ではありません。
それでも紀伊徳川家、尾張徳川家と並んで町名に一字を残しています。
井伊家は徳川家康に仕えた井伊直政を祖とする彦根藩主家で、幕府政治でも大きな役割を果たしました。
彦根市の資料では、井伊直政が徳川四天王の一人として家康の天下統一に貢献したことが紹介されています。
2代井伊直孝も幕府政治で重きをなし、後の大老職につながる役割を担いました。
幕末には井伊直弼が大老となったことでも知られています。
そうした井伊家の中屋敷が紀尾井町周辺にありました。
現在のホテルニューオータニの土地にその歴史が受け継がれています。
御三家2家と彦根井伊家が集まったこの地域は、江戸城下の中でも有力大名との関係が非常に深い場所だったと考えられます。
その特徴を3文字に凝縮した名前が「紀尾井町」なのです。
江戸の古地図を見ると「紀・尾・井」の位置関係が見えてくる
紀尾井町の名前の成り立ちは、文章だけで読むより古地図を見るとさらにわかりやすくなります。
千代田区の町名由来板では1856年の絵図を使い、3家の屋敷が置かれていた位置を示しています。
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の江戸切絵図「外桜田永田町絵図」にも、この周辺の地名や大名屋敷が記されています。
同資料の地名データでは「紀尾井坂」という表記も確認できます。
今の東京の地図だけを見ると、ビルや大学、ホテルが別々に存在しているように見えます。
江戸時代の絵図と重ねると、その下に大名屋敷の大きな区画があったことがわかります。
千代田区の景観資料でも、大名屋敷の敷地割が現代の街並みに引き継がれていることが指摘されています。
このため、古地図は単なる昔の資料ではありません。
現在の紀尾井町がなぜ大きな敷地や豊かな緑を持つ街になっているのかを理解する手がかりにもなります。
「紀・尾・井」の3文字は、江戸の地図を短い名前に置き換えたような地名だと考えると、とても覚えやすいでしょう。
「紀尾井町」という町名はいつ誕生した?江戸から明治への変化
江戸時代には「紀尾井町」という町名はまだ存在しなかった
ここで混同しやすいのが、3家の屋敷があった時代と、紀尾井町という町名が生まれた時代です。
紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根井伊家の屋敷は江戸時代からありました。
しかし、現在につながる町名が行政上成立したのは明治時代です。
千代田区の記録では、大名屋敷があった区域は1872年に「麹町紀尾井町」となっています。
つまり、「紀尾井」という名前の材料は江戸時代にそろっていましたが、町名としてまとめられたのは明治維新後ということです。
幕府が終わると、大名屋敷の土地利用も大きく変わりました。
政府用地や宮家の邸宅などへ転用され、江戸時代とは違う街へ移っていきます。
それでも、土地の記憶は完全には消えませんでした。
かつて屋敷を構えていた3家の名前が、新しい町名の中に残されたからです。
紀尾井町は、江戸時代の武家地から近代東京へ移り変わる途中で生まれた地名なのです。
明治5年の1872年に「麹町紀尾井町」が誕生
町名の歴史で最も重要な年の一つが1872年です。
明治5年に、3家の大名屋敷があった区域は新たに「麹町紀尾井町」となりました。
この時点で「紀尾井」という3文字が正式な町名として使われるようになります。
江戸時代に土地を象徴していたのは、紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家それぞれの屋敷でした。
明治になると大名屋敷という仕組みがなくなり、新しい行政の中で土地を整理する必要が生まれます。
そこで、かつてこの土地に存在した3家の記憶を一つにまとめる形で「紀尾井」が町名になりました。
現在から見ると、紀尾井町は歴史の古い名前に感じられます。
一方で、江戸時代から続く村名や町人地の名前とは成立の仕方が異なります。
江戸の大名屋敷を材料に、明治時代に作られた新しい町名だったのです。
この点を知っておくと、「江戸時代から紀尾井町と呼ばれていた」と誤解せずに済みます。
明治11年の1878年に麹町区へ所属
1878年には、麹町紀尾井町が麹町区に所属することになります。
現在の千代田区になる前は、東京の行政区域も今とは違いました。
明治以降の紀尾井町では、旧大名屋敷の土地が政府用地や宮家の邸宅などへ変化していきました。
千代田区の記録では、北白川宮邸、伏見宮邸、行政裁判所、尾張徳川邸などが置かれたことが確認できます。
江戸時代の武家地が一気に細かな住宅街になったのではなく、広い敷地を利用する邸宅や公的施設が引き続き置かれたことがわかります。
この土地の広さや格式が、その後の街づくりにも影響していきました。
1878年は、紀尾井町の近代史を語るうえでもう一つ重要な出来事が起きた年です。
清水谷前の道で、当時の内務卿だった大久保利通が襲撃され亡くなりました。
後に「紀尾井坂の変」と呼ばれる事件です。
大名屋敷から近代都市へ変わる時期の紀尾井町は、明治政治の歴史とも深く結びついていました。
明治44年の1911年に現在の「紀尾井町」へ
現在と同じ「紀尾井町」という町名になったのは1911年です。
千代田区によると、明治44年の町名変更で「麹町紀尾井町」から「紀尾井町」へ改められました。
そのため、「紀尾井町はいつ誕生したのか」という質問には少し注意が必要です。
1872年は「麹町紀尾井町」という町名が成立した年です。
1911年は現在と同じ「紀尾井町」という名称になった年です。
どちらも間違いではなく、何を基準にするかが違います。
町名のルーツを考えるなら1872年、現在と同じ名称になった時期を見るなら1911年と整理するとわかりやすいでしょう。
上智大学はその翌年の1912年に東京市麹町区紀尾井町の校地を購入しています。
1913年には上智大学が開設されました。
大名屋敷や宮家の邸宅が中心だった土地に、大学など新しい都市機能が加わっていく時代だったのです。
区画整理を経ても「紀尾井町」の名前が現在まで残った
1911年に現在の名前になったあとも、紀尾井町の区域は変化しています。
1934年には区画整理によって、北側の一部が麹町五丁目と麹町六丁目へ編入されました。
さらに1980年1月には紀尾井町で住居表示が実施されています。
行政制度や町の境界が変わっても、「紀尾井町」という名前そのものは残されました。
千代田区は住居表示を進める際、町名について地域の歴史や伝統を尊重し、由緒ある名称を原則として選ぶ方針を示しています。
地名は単なる住所の記号ではありません。
過去の土地利用や、そこで暮らした人々の歴史を残す役割もあります。
紀尾井町の場合、明治初期に作られた町名が150年以上にわたって使われ続けています。
その間に大名屋敷はホテルや大学、オフィスなどへ姿を変えました。
それでも「紀・尾・井」という3文字が残っているため、土地の歴史を現在から逆にたどることができます。
現在の紀尾井町で「紀・尾・井」の歴史を探してみよう
「紀」の紀伊徳川家屋敷跡と東京ガーデンテラス紀尾井町
現在の紀尾井町で「紀」の歴史を感じやすい場所が、東京ガーデンテラス紀尾井町周辺です。
東京ガーデンテラス紀尾井町の公式情報でも、現在の街の背景として紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根井伊家の屋敷があった歴史が紹介されています。
紀伊徳川家の土地は、明治時代には北白川宮邸となりました。
その後、現在の赤坂プリンス クラシックハウスにつながる旧李王家東京邸が建てられています。
旧李王家東京邸は1930年に建設され、2011年に東京都指定有形文化財となりました。
現在は赤坂プリンス クラシックハウスとして保存、活用されています。
つまり、現在の建物そのものが紀伊徳川家の屋敷だったわけではありません。
紀伊徳川家の大名屋敷から宮家の邸宅、旧李王家東京邸、ホテル関連施設へと、土地の利用が何度も変化してきたのです。
紀尾井町の歴史を楽しむときは、古い建物だけを探すより「同じ土地がどのように使われ続けてきたか」を見ると理解が深まります。
「尾」の尾張徳川家屋敷跡と現在の上智大学
「尾」の歴史につながる場所として知っておきたいのが上智大学周辺です。
千代田区の町名由来板では、明治以降の紀尾井町について尾張徳川邸の場所が現在の上智大学にあたることが示されています。
ただし、現在の大学キャンパスまで土地利用が一直線につながったわけではありません。
上智大学の記録では、1912年に紀尾井町の校地を購入した当時、高島鞆之助、大島久直、赤星鉄馬、田中武兵衛らの邸宅があったことが確認できます。
大学は約4,300坪の土地を購入し、翌1913年に開設されました。
現在は学生が行き交う教育の場ですが、江戸までさかのぼれば尾張徳川家の中屋敷があった地域です。
土地の用途は変わっても、「紀尾井町」の「尾」が過去とのつながりを残しています。
大学のキャンパスを歩くとき、ここに大きな大名屋敷があった時代を想像してみると、普段とは違う景色に見えるでしょう。
「井」の井伊家屋敷跡とホテルニューオータニ
「井」の歴史を現在最も実感しやすい場所の一つがホテルニューオータニです。
ホテルニューオータニの公式記録では、江戸時代初期にこの土地に加藤家の屋敷があり、加藤家改易後に井伊家へ引き継がれ、幕末まで中屋敷として使用されたとされています。
その後、この土地は伏見宮邸となりました。
戦後を経てホテルニューオータニの創業者、大谷米太郎が土地を取得し、1964年にホテルが開業しています。
敷地内には現在も約1万坪の日本庭園があります。
庭園は時代ごとに手が加えられているため、江戸時代の姿がそのまま残っているわけではありません。
それでも井伊家の中屋敷を含む長い土地の履歴を持つ緑地が、現在まで受け継がれている点は大きな特徴です。
「井」という町名の一字とホテルの庭園を結びつけて知ると、現在の紀尾井町と江戸時代が急に身近になります。
清水谷公園では町名の由来を現地で確認できる
紀尾井町という名前について現地で確かめるなら、清水谷公園は特にわかりやすい場所です。
千代田区の町名由来板は、紀尾井町2番の清水谷公園に設置されています。
ここでは紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根井伊家と町名の関係を確認できます。
江戸時代の絵図と現在の土地を見比べながら理解できるため、文字だけで読むより位置関係をつかみやすいでしょう。
「清水谷」という名前にも土地の歴史があります。
紀尾井坂より南から弁慶橋付近までの低地では清水が湧き出ていたため、この一帯は清水谷と呼ばれていました。
現在の紀尾井町は高層建築が多い街ですが、実際に歩くと坂や谷など起伏の大きな地形を感じられます。
千代田区の景観資料でも、清水谷公園や坂、崖線などの起伏がこの地域の特徴として挙げられています。
地名だけでなく地形まで意識すると、江戸時代の街を想像しやすくなります。
現代の街並みにも大名屋敷時代の土地の記憶が残っている
紀尾井町では、江戸時代の大名屋敷がそのまま立ち並んでいるわけではありません。
それでも、当時の土地の使われ方は現代の街づくりに影響を残しています。
千代田区の景観資料では、大名屋敷の敷地割が現代にも引き継がれ、ゆとりを感じられる街並みを形成しているとされています。
ホテルニューオータニの広い日本庭園も、この地域に大規模な屋敷地があった歴史を感じさせる場所です。
東京ガーデンテラス紀尾井町も、清水谷公園から弁慶濠へ続く緑や、赤坂御門跡周辺の歴史を意識した空間として整備されています。
敷地内からは江戸時代の石垣を見ることもできます。
そのため、紀尾井町の歴史を感じる方法は古い建物を見ることだけではありません。
広い敷地、緑、坂、濠、石垣などに注目すると、現代の街の中にも江戸の土地の記憶を見つけられます。
名前の由来を知ってから歩くことで、何気ない都市景観が歴史の手がかりに変わるでしょう。
紀尾井町の名前の由来をさらに深く知る5つの疑問
「紀尾井」という3文字はなぜこの順番になった?
「紀」が紀伊徳川家、「尾」が尾張徳川家、「井」が彦根井伊家だとわかると、次に気になるのが並び順です。
なぜ「尾紀井」や「井紀尾」ではなく、「紀尾井」になったのでしょうか。
千代田区の町名由来板では、3家からそれぞれ一字ずつ取って名付けられたことまでは明記されています。
一方、なぜその3文字を現在の順番に並べたのかについては、同資料に理由の記載はありません。
今回確認できる公的資料にも、順番を決めた根拠を示す記録は見当たりません。
そのため、家格の順や屋敷の広さの順などと断定することはできません。
歴史を説明するときは、記録で確認できる事実と、もっともらしい推測を分ける必要があります。
確実にわかっているのは、紀伊徳川、尾張徳川、彦根井伊の3家から一字ずつ取って「紀尾井」としたことです。
順番については、根拠が確認できない以上「理由は不明」としておくのが適切です。
わからない部分を無理に埋めないことも、歴史を正確に楽しむためには大切です。
紀尾井坂と紀尾井町はどちらの名前が先?
ここは、紀尾井町の由来を深く知りたい人にとって特におもしろいポイントです。
行政上の「麹町紀尾井町」が成立したのは1872年です。
一方、国立国会図書館デジタルコレクションの江戸切絵図「外桜田永田町絵図」には、「紀尾井坂」という地名が記されています。
江戸時代の地図に紀尾井坂が確認できるため、「紀尾井」という呼び名そのものは、1872年に町名が成立するより前から坂名として使われていたことがわかります。
千代田区も紀尾井坂について、名前の由来は紀州家、尾張家、井伊家にあると説明しています。
つまり、3家を組み合わせた「紀尾井」という名称は、明治になって突然ゼロから作られたと考えるより、江戸期から存在した坂名とも深くつながっていると理解するほうが自然です。
ただし、町名が坂名から直接そのまま採用されたと断定できる一次資料までは確認できません。
確実に言えるのは、紀尾井坂という呼び名が町名成立以前の江戸期に確認でき、町名も同じ3家を由来としていることです。
ここまで知ると、「紀尾井」という名前の歴史が町名の成立年よりさらに古いことがわかります。
紀尾井町は誰が名付けた?
「3家から一字ずつ取ったのはわかったけれど、誰が考えたのか」と気になる人もいるでしょう。
千代田区の公式資料には、「三家よりそれぞれ一字ずつ取って名付けられた」と記されています。
しかし、命名者として特定の個人名は示されていません。
そのため、「この人物が紀尾井町と名付けた」と断定できる根拠は、確認できる公的資料からは得られません。
町名が成立したのは明治5年の1872年です。
この時期に旧大名屋敷の区域が新しい町として整理され、「麹町紀尾井町」が誕生しました。
地名の由来ははっきりしている一方、具体的な命名者まではわからないということです。
歴史の話では、由来が知られていることと、名付け親まで特定されていることは別問題です。
紀尾井町についても、その二つを混同しないようにすると正確に理解できます。
誰か一人の発想で生まれた地名として紹介するより、明治初期の町名整理の中で、土地に残る3家の記憶から付けられた名前として捉えるのが安全です。
「紀尾井坂の変」と大久保利通にはどんな関係がある?
紀尾井坂を調べると、「紀尾井坂の変」という歴史用語に出会います。
これは1878年5月14日に内務卿の大久保利通が襲撃され、亡くなった事件です。
千代田区の町名由来板では、事件の場所を清水谷前の道と記しています。
千代田区の坂の案内では、この事件を紀尾井坂の変として紹介しています。
ここで注意したいのは、大久保利通の事件が紀尾井町という名前の由来ではないことです。
町名の由来はあくまで紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根井伊家の3家です。
大久保利通の事件は、すでに「紀尾井」という名前が存在した地域で起きた後世の出来事です。
事件後、現場近くには大久保利通の哀悼碑が建てられ、その周辺はのちに清水谷公園として整備されました。
現在も紀尾井町を歩くと、江戸時代の大名屋敷の歴史と、明治政府をめぐる政治史を同じ地域でたどることができます。
紀尾井町が単なる地名雑学にとどまらず、日本史の複数の時代とつながっていることがわかるでしょう。
紀尾井町を歩くならどこを見ると歴史を実感できる?
紀尾井町を実際に歩くなら、最初に清水谷公園を見ると全体像を理解しやすくなります。
公園にある町名由来板で3家と町名の関係を確認してから周辺を歩くと、それぞれの場所が何を意味するのかわかりやすくなります。
「紀」の歴史を感じたいなら、東京ガーデンテラス紀尾井町と赤坂プリンス クラシックハウス周辺が候補です。
「尾」なら上智大学周辺です。
「井」ならホテルニューオータニと日本庭園がわかりやすいでしょう。
さらに紀尾井坂、清水谷、弁慶濠、赤坂御門跡などを意識すると、この地域特有の起伏や江戸城外濠との関係も感じられます。
大切なのは、現在の建物をそのまま江戸時代の遺構だと思わないことです。
建物が新しくても、土地の区画や庭園、坂、地形、石垣、地名などに過去が残っています。
スマートフォンの現在地図と江戸の絵図を見比べながら歩けば、紀尾井町という3文字が実際の土地と結びついて理解できるでしょう。
「紀尾井町」名前の由来まとめ
紀尾井町という名前は、江戸時代にこの地域に屋敷を構えていた紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根井伊家から一字ずつ取って生まれました。
「紀」は紀伊徳川家、「尾」は尾張徳川家、「井」は彦根井伊家です。
1856年の絵図には、紀伊和歌山藩徳川家上屋敷、尾張名古屋藩徳川家中屋敷、近江彦根藩井伊家中屋敷が確認できます。
ただし、江戸時代から行政上の「紀尾井町」が存在したわけではありません。
1872年に「麹町紀尾井町」が成立し、1911年の町名変更で現在と同じ「紀尾井町」になりました。
一方、「紀尾井坂」という名称は江戸期の切絵図にも確認できるため、「紀尾井」という呼び名自体は町名成立以前から存在していました。
なぜ「紀・尾・井」の順番になったのか、誰が個人として命名したのかについては、確認できる公的資料からは特定できません。
根拠のない説で補わず、わかっている範囲を押さえることが大切です。
現在の街では、東京ガーデンテラス紀尾井町周辺に紀伊徳川家、上智大学周辺に尾張徳川家、ホテルニューオータニ周辺に井伊家につながる土地の歴史があります。
清水谷公園では町名由来板を見ることができ、紀尾井坂や大久保利通の哀悼碑など、明治以降の歴史にも触れられます。
何気なく目にする「紀尾井町」という住所ですが、3文字を分解するだけで江戸時代の大名屋敷の配置が見えてきます。
さらに古地図と現在の街を重ねると、江戸の武家地が宮家の邸宅、大学、ホテル、オフィスへと変化してきた歴史までたどれます。
紀尾井町は、地名そのものが土地の歴史を伝えている、とてもわかりやすい例なのです。
