東京・日本橋を歩いていると目にする「馬喰町」という少し変わった地名。
「馬」に「喰」と書くため、「昔は馬を食べていた場所なの?」と気になったことがある人もいるでしょう。
しかし、この名前の背景にあるのは食文化ではなく、江戸の交通や物流を支えた馬と、「博労」と呼ばれる馬の専門家たちです。
さらに調べていくと、馬市、初音の馬場、博労頭の高木源兵衛や富田半七、奥州街道、公事宿など、江戸の町の姿が次々と見えてきます。
一方で、馬喰町という名前が生まれた理由は一つに確定しているわけではありません。
この記事では、公的資料や国立国会図書館に残る資料をもとに、何が確認でき、どこからが伝承や説なのかを分けながら、馬喰町の名前の由来をわかりやすく解説します。
馬喰町の名前の由来は?まず結論をわかりやすく解説
馬喰町の読み方は「ばくろちょう」
東京・日本橋にある「馬喰町」は、「ばくろちょう」と読みます。
現在も東京都中央区の「日本橋馬喰町」という町名が残っており、JR総武線快速の駅名にも馬喰町が使われています。
漢字だけを見ると、かなり変わった地名に感じる人も多いでしょう。
特に目を引くのが、「馬」の後に「喰」という字が続いていることです。
しかし、この「馬喰」は馬を食べることを意味して付けられた名前ではありません。
名前を理解する鍵になるのが、かつて牛馬の売買や仲介、状態の見極めなどに携わっていた「博労(ばくろう)」と呼ばれる人々です。
馬喰町には馬市が立ち、牛馬の売買や治療に関わる博労が多く暮らしていたことなどが、町名の由来として伝えられています。
また、近くにあった「初音馬場」を博労頭の高木源兵衛や富田半七が管理していたことに由来するという説もあります。
つまり、馬喰町という一風変わった名前の背景にあるのは、食文化ではなく、江戸の交通や物流を支えていた馬と、それを扱う専門家たちの歴史なのです。
「馬喰」は馬を食べるという意味ではない
「馬喰」という漢字を現代の感覚でそのまま読むと、「馬を喰う」と見えてしまいます。
そのため、地名を初めて見た人が「昔、この辺りで馬肉を食べていたから?」と考えるのも不思議ではありません。
しかし、確認できる町名由来の資料に、馬を食べることから名付けられたという説明はありません。
馬喰町と結びついているのは、牛馬の売買や治療などに携わった博労と、馬を売買する馬市です。
博労は、単に馬を右から左へ売る商人ではありませんでした。
馬の状態を見極めたり、売買を仲介したり、地域や時代によっては病気やけがへの対応にも関わった存在です。
自動車もトラックもなかった時代、馬は人や物を動かすための大切な力でした。
その馬を扱う人々が集まる場所が町の性格となり、それが名前にも残ったと考えると、「馬喰町」という地名の印象は大きく変わります。
現代の漢字の意味だけで考えるのではなく、江戸時代にどんな仕事が行われていた土地だったのかを見ることが、この名前を理解する近道です。
名前のルーツとされる「博労」とはどんな人?
馬喰町の由来を理解するなら、「博労」という言葉を避けて通ることはできません。
博労とは、牛馬の良し悪しを見極めたり、売買や仲介をしたりする人を指す言葉です。
時代や地域によっては、牛馬の病気やけがの治療にも関わっていました。
現在でたとえるなら、家畜商、馬の鑑定をする専門家、取引の仲介者などの役割が重なったような存在を想像するとわかりやすいでしょう。
馬は一頭ごとに年齢や体格、健康状態、性格が違います。
見た目だけでは、荷を運ぶのに向いているのか、十分に働ける状態なのか、どれくらいの価値があるのかを簡単には判断できません。
そこで、馬を見る経験と知識を持った人が必要になります。
馬喰町には馬市が立っていたため、売り手と買い手だけでなく、馬を見極める知識を持った博労が集まる条件もそろっていました。
町の名前に職業の記憶が残ったと考えると、馬喰町は江戸の仕事文化を現代まで伝える地名ともいえます。
馬喰町の由来には大きく2つの説がある
馬喰町という名前については、「これが唯一の由来だ」と確定できる一つの答えが残っているわけではありません。
国立国会図書館が紹介する由来には、大きく分けて二つの説明があります。
一つは、この地域に馬市が立ち、牛馬の売買や治療を行う博労が多く住んでいたため、馬喰町と呼ばれるようになったというものです。
もう一つは、近くにあった初音馬場を、博労頭の高木源兵衛や富田半七が管理していたことに由来するというものです。
どちらにも共通しているのは、「馬」と「馬を扱う人々」です。
そのため、町名が成立した直接のきっかけを一つに決めることは難しくても、この地域が馬と非常に深い関係を持っていたことは読み取れます。
地名の由来は、数百年前に誰かが名付ける瞬間を映像や公文書で残しているわけではありません。
後世に残された地誌、記録、絵画、伝承などを照らし合わせながら考える必要があります。
馬喰町についても、一つの説だけを事実として断定するより、馬市、博労、初音馬場という複数の要素が重なった土地だったと理解する方が正確です。
中央区公式では町名の由来が断定されていない
馬喰町の由来を調べるうえで、特に重要なのが「わかっていること」と「推定されていること」を分けることです。
中央区の町名由来資料には、天正年間に博労頭の高木源兵衛、富田半七らがこの地域に住んでいたという記事があることが記されています。
一方で、それが町名の由来であるのかは明らかではないともされています。
つまり、「博労頭と呼ばれる人物が住んでいた」という記録と、「その人物たちがいたから馬喰町と名付けられた」という結論は同じではありません。
ここを混同すると、伝承や推定を確定した史実のように扱うことになってしまいます。
ただし、馬市があったことや、博労がこの地域と結びついていたこと、初音馬場が存在したことなど、馬に関係する要素が複数確認できる点は重要です。
したがって、「馬を扱う仕事や施設と深く関係した町名」というところまでは理解できますが、「誰が、いつ、どの出来事を理由に命名したのか」までは確定していない、と考えるのが適切です。
この違いを知っておくと、馬喰町の由来を必要以上に単純化せずに理解できます。
なぜ馬喰町に「博労」が集まった?馬と深い関係を持つ土地の歴史
江戸時代の馬は移動や物流を支える重要な存在だった
現代の東京では、荷物はトラックや鉄道で運ばれ、人は電車や自動車で移動します。
江戸時代にはもちろん、そのような交通手段はありません。
長い距離を人が移動したり、大量の荷物を運んだりするうえで、馬は大切な役割を担っていました。
特に街道を利用した輸送では、人の力だけで運べる量には限界があります。
そこで馬の背に荷物を載せたり、人が馬に乗ったりして移動しました。
馬喰町には伝馬用の馬を供給する馬市が立っていたことが確認されています。
周辺には大伝馬町や小伝馬町といった、交通や伝馬を連想させる町名も残っています。
江戸の町は、同じ仕事を担う人々がまとまって暮らすことも多く、仕事や役割がそのまま町の特徴になりました。
馬喰町も、馬が生活や物流に欠かせなかった時代だからこそ成立した町だったと考えると、その名前の背景が理解しやすくなります。
馬喰町には馬を売買する「馬市」があった
馬喰町と馬との関係をもっともわかりやすく示しているのが、馬市の存在です。
馬喰町には馬市が立ち、伝馬に使う馬が供給されていました。
馬市とは、その名の通り馬の売買が行われる場所です。
馬が重要な交通手段だった社会では、働ける馬を確保すること自体が物流を維持するために必要でした。
馬を買いたい人が集まれば、売りたい人も集まります。
そして取引が増えれば、馬の良し悪しを判断できる博労のような専門家も必要になります。
国立国会図書館が紹介する町名由来にも、馬市が立ち、牛馬の売買や治療をする博労が多く住んでいたことが挙げられています。
このため、馬市と博労は別々の歴史ではなく、一つの経済活動の中でつながっていたと考えるとわかりやすいでしょう。
現在の馬喰町に馬の市場はありませんが、町名はかつてこの場所で行われていた仕事を今も伝えています。
博労は馬の売買・仲介・見極めなどを担っていた
博労の重要な仕事の一つが、牛馬の売買や仲介です。
馬は工業製品のように、同じ型なら同じ性能というものではありません。
健康状態も違えば、力の強さや扱いやすさも違います。
取引する場合には、その馬にどの程度の価値があるのかを見極める経験が必要です。
そこに博労の専門性がありました。
博労は牛馬の状態を判断し、売買の間に入り、地域や時代によっては治療にも関わりました。
国立国会図書館の典拠情報でも、「馬喰」「博労」「伯楽」は「家畜商」に関係する呼称として整理されています。
馬喰町の名前を単に珍しい漢字として見るだけでは、この仕事の重要性は見えてきません。
人や荷物の移動を馬に頼っていた時代には、良い馬を見分けて必要な人へ渡す仕事も、都市を動かす仕組みの一部だったのです。
博労頭・高木源兵衛と富田半七とはどんな人物だった?
馬喰町の町名由来を調べると、高木源兵衛と富田半七という名前が登場します。
中央区の資料には、天正年間に博労頭の高木源兵衛、富田半七らがこの地域に住んでいたという記事があることが記されています。
国立国会図書館では、近くにあった初音馬場の管理を高木源兵衛や富田半七が任されていたことが、町名由来の説の一つとして紹介されています。
ここで出てくる「博労頭」という呼び名からも、二人が馬を扱う人々と関係する立場だったことがうかがえます。
ただし、この二人が住んだことそのものが町名を生んだ、と断言することはできません。
中央区も、その居住に関する記事が町名の由来なのかは明らかではないとしています。
確実に押さえておきたいのは、高木源兵衛や富田半七という人物が馬喰町の古い記録に登場し、初音馬場や博労との関係の中で語られてきたという点です。
町名由来の一説としては重要ですが、確定した命名理由とは分けて考える必要があります。
馬を扱う人々の町だったことが名前に残った
馬市、博労、初音馬場、高木源兵衛や富田半七。
馬喰町の歴史には、「馬」に関係する要素が何度も登場します。
そのため、具体的な命名の瞬間がわからなくても、この地域が馬を扱う場所として認識されていたことは十分に理解できます。
江戸には、職業や商売と結びついた町が数多く存在しました。
中央区にも、金座や銀座をはじめ、職業や扱う品物を思わせる古い町名が残されています。
町名は、現在の住所を示すためだけの記号ではありません。
誰が暮らし、何を扱い、どんな役割を担っていたのかを残す歴史の手がかりでもあります。
馬喰町から馬そのものの姿がほとんど消えた現在も、「馬喰町」という名称だけは使われ続けています。
何百年も前の仕事の記憶が、駅名や住所として毎日使われているところに、この地名の面白さがあります。
「初音の馬場」と馬喰町にはどんな関係があった?
初音の馬場は実際に江戸の記録に残っている
馬喰町の由来と関連して語られる「初音の馬場」は、単なる想像上の場所ではありません。
江戸時代の地誌『江戸名所図会』には、馬喰町の馬場を描いた挿絵が収められています。
歌川広重の『名所江戸百景』にも、「馬喰町初音の馬場」という作品が残っています。
つまり、江戸の人々にとって「馬喰町」と「馬場」は実際に結びついた景観だったことがわかります。
現在の馬喰町はビルや店舗が並ぶ都心の街で、馬場が広がっていた風景をそのまま想像するのは難しいかもしれません。
しかし、江戸時代の絵を見ると、現在とは大きく違った土地の使われ方があったことがわかります。
地名だけでは抽象的だった「馬の町」というイメージが、浮世絵や地誌によって具体的な風景として見えてくるのです。
「初音」という名前はどこから来た?
初音の馬場の「初音」は、この地域に伝わる「初音森」と深く関係しています。
初音森神社は、江戸初期まで馬喰町の初音ノ森の鎮守として祀られていたと伝えられています。
現在も初音森神社の名が残り、馬喰町周辺の古い土地の記憶につながっています。
ここで注意したいのは、「初音」という言葉そのものが馬喰町という町名の由来ではないことです。
初音と呼ばれる土地や神社があり、その周辺に馬場が存在し、さらに馬を扱う博労との関係が伝えられているという順番で考えるとわかりやすくなります。
一つの町名を調べ始めただけなのに、神社、森、馬場、職業へと歴史がつながっていくのが馬喰町の特徴です。
現在の街並みだけでは見えなくなった地形や土地利用も、昔の名前を追うことで少しずつ姿を現します。
高木源兵衛と富田半七が初音馬場を管理していたという説
国立国会図書館では、初音馬場を博労頭の高木源兵衛や富田半七が管理していたことが、馬喰町の町名由来の説として紹介されています。
この説が興味深いのは、「博労が多く住んでいたから」という一般的な説明より、具体的な人物と施設が登場する点です。
初音馬場という馬を扱う場所があり、その管理に博労頭が関わっていたのであれば、この地域が馬と深い関係を持っていたことはさらに理解しやすくなります。
ただし、馬場を管理していたことと、それが町名を生んだことは分けて考える必要があります。
中央区の資料では、高木源兵衛や富田半七らが住んでいたという記事はあるものの、それが町名由来であるかは明らかではないとされています。
そのため、「高木源兵衛と富田半七がいたので馬喰町になった」と言い切るより、「町名由来として伝わる説の一つ」と理解するのが正確です。
徳川家康にまつわる話は「伝承」として考える
初音の馬場には、徳川家康に関係する話も伝えられています。
こうした話は馬喰町の歴史をより印象的にしてくれますが、史料で確認できる事実と伝承を分ける必要があります。
特に、関ヶ原の戦いを前に徳川家康がこの地で馬揃えをしたという話については、確定した史実として扱わない方が適切です。
初音の馬場そのものは、『江戸名所図会』や歌川広重の作品によって江戸時代の存在を確認できます。
一方で、家康の具体的な行動までを同じ確度で確認できるわけではありません。
歴史の記事では、面白い話ほど断定したくなります。
しかし、「記録で確認できること」と「地域に伝わってきた話」を区別する方が、読者にとって信頼できる情報になります。
初音馬場と馬喰町の関係は、家康の伝承を事実としなくても十分に興味深い歴史です。
歌川広重の「馬喰町初音の馬場」に残る江戸の風景
馬喰町の昔の姿を視覚的に知りたいなら、歌川広重の「馬喰町初音の馬場」は非常にわかりやすい資料です。
この作品は『名所江戸百景』の一つとして残され、国立国会図書館のデジタル資料でも確認できます。
さらに『江戸名所図会』にも馬喰町馬場の挿絵が残っています。
今では道路や建物が密集する地域ですが、江戸時代には馬場という広い空間が存在していました。
これは、「馬喰町」という地名が単に古い言葉の名残なのではなく、実際の土地の使われ方とも結びついていたことを感じさせます。
古い地名を調べる面白さは、文字の意味だけで終わらないところにあります。
絵画や地誌と組み合わせて見ると、現在の東京の下に、まったく違う江戸の風景が重なっていることがわかります。
「博労町」から「馬喰町」へ?漢字と町名はどう変わったのか
古くは「博労町」と呼ばれていた
現在は「馬喰町」という漢字が定着していますが、古くは「博労町」と呼ばれていたと伝えられています。
中央区観光協会の地域資料では、この地域には馬の売買を行う博労が住んでいたため博労町と呼ばれ、正保年間ごろに馬喰町へ改められたとされています。
この流れを知ると、「馬喰」という漢字だけを見たときの違和感もかなり薄れます。
もともと馬を扱う「博労」と呼ばれる人々と結びついた町で、その名称の表記が変化して現在の「馬喰町」になったと考えられるからです。
ただし、なぜ「博労」から「馬喰」という字が選ばれたのかについて、命名者や具体的な理由まですべて明らかになっているわけではありません。
古い地名では、同じ音に別の漢字が当てられたり、時代とともに表記が変化したりすることがあります。
馬喰町も、現在の三文字だけを見るのではなく、古い「博労町」という名称までさかのぼることで、意味が理解しやすくなる地名です。
「伯楽」から「博労・馬喰」へとつながった
「博労」という言葉をさらにたどると、「伯楽(はくらく)」という言葉との関係が見えてきます。
「博労」は「伯楽」の音が変化したものとされ、「馬喰」や「伯楽」といった表記も用いられてきました。
もともとの伯楽は、馬の良し悪しを見分けることに優れた人を指す言葉として使われました。
日本では牛馬の状態を見極めたり、治療したりする人にも使われ、そこから売買や仲介を行う人を「博労」などと呼ぶようになりました。
国立国会図書館の典拠情報でも、「家畜商」の関連語として「馬喰」「博労」「伯楽」がまとめられています。
つまり、「伯楽」「博労」「馬喰」はまったく無関係な三つの言葉ではありません。
馬を見る専門的な能力を持つ人を表す言葉が、時代や仕事の変化とともに牛馬の売買や仲介を担う人にも使われ、異なる漢字表記が定着していったと考えると理解しやすいでしょう。
この流れを知れば、「馬喰町」の「喰」を現在の「食べる」だけで解釈するのが適切ではないこともわかります。
正保年間ごろに「馬喰町」へ変わったと伝えられている
中央区観光協会の地域案内では、「博労町」と呼ばれていた町が正保年間ごろに「馬喰町」へ改められたとされています。
正保年間は江戸時代の初期にあたります。
つまり、「馬喰町」という表記はかなり古くから使われてきたことになります。
その後、江戸時代後期の『江戸名所図会』や歌川広重の『名所江戸百景』にも「馬喰町」という名称が登場します。
少なくとも江戸後期には、現在と同じ「馬喰町」という表記が広く使われていたことがわかります。
一方で、「正保何年何月何日に正式変更された」という細かい経緯まで、現在確認できる資料から簡単に断定できるわけではありません。
そのため、「正保年間ごろに改められたと伝えられている」という表現が適切です。
現在の駅名として当たり前に使われている三文字にも、江戸初期までさかのぼる長い時間が積み重なっています。
なぜ「馬喰」という漢字になったのかは断定できない
ここまで読むと、「では、なぜ博労ではなく馬喰という漢字に変わったのか」と気になるでしょう。
残念ながら、この点について命名者や漢字を選んだ具体的な理由を一つに確定できる資料は確認できません。
中央区も、日本橋馬喰町そのものの町名由来について明らかではないとしています。
確認できるのは、博労と呼ばれる馬の売買に関わる人々がこの地域と結びついていたことです。
さらに、古くは博労町と呼ばれ、正保年間ごろに馬喰町へ改められたと伝えられていることも確認できます。
また、「博労」「馬喰」「伯楽」という言葉自体にも歴史的なつながりがあります。
そのため、「馬を食べたから馬喰になった」と考える必要はありません。
一方で、「この理由でこの漢字が選ばれた」と推測を事実のように書くのも避けるべきです。
由来の一部がわからないこと自体も、400年以上続く地名らしい歴史の特徴といえるでしょう。
古い資料を見ると「馬喰町」の名が定着していたことがわかる
江戸時代の資料には、「馬喰町」という名称がはっきり残されています。
1834年刊行の『江戸名所図会』には、馬喰町馬場を描いた挿絵があります。
歌川広重の『名所江戸百景』にも、「馬喰町初音の馬場」が収められています。
こうした資料の価値は、「昔からそう呼ばれていたらしい」という説明だけでなく、江戸時代に実際に使われていた地名を作品の中で確認できるところにあります。
現在も「日本橋馬喰町」という町名は残っています。
江戸の地名には都市整備や住居表示によって消えたものもありますが、馬喰町は現在の住所や駅名として使われ続けています。
日常的に利用する地名なので古さを意識しにくいものの、その名称をたどれば江戸時代の絵や記録につながります。
馬喰町は、地名そのものが長い歴史を伝えている町なのです。
馬の町だった馬喰町はなぜ現在の問屋街になった?
奥州街道と結びつき多くの人が行き交った
馬喰町は、馬の売買だけで成り立っていた町ではありません。
国立国会図書館では、馬喰町は奥州街道の出発地であったと紹介されています。
街道と結びついた場所には、旅をする人や商売をする人、荷物を運ぶ人が集まります。
人が集まれば、泊まる場所も必要になります。
さらに食事や日用品、商売に必要な品を提供する店も生まれます。
つまり、交通の重要な場所であること自体が商業を発展させる条件になりました。
馬喰町周辺に大伝馬町や小伝馬町が存在することを考えても、この一帯が人馬による移動や物流と深く関係していたことがわかります。
「馬の町」だった馬喰町が、後に商業の町として発展したことは、まったく別の歴史ではありません。
人と物を運ぶ場所だったからこそ、人と物が集まる商業地へつながっていったと考えると、町の変化が一本の線として見えてきます。
関東郡代の役宅があり公事宿も集まった
江戸時代の馬喰町には、関東郡代の役宅もありました。
そのため、この地域には一般の旅人を泊める宿だけでなく、「公事宿」と呼ばれる宿も多く存在しました。
公事宿とは、訴訟や裁判などのために江戸へ出てきた人を宿泊させる宿です。
現在なら地方から東京へ裁判や公的な手続きのために来る場合、鉄道や飛行機で日帰りできることもあります。
しかし江戸時代は移動に何日もかかるため、役所の近くで長く滞在する必要がありました。
そうした人々を受け入れる宿が集まれば、食事、買い物、荷物、情報などを扱う商売も自然に増えていきます。
馬喰町は、街道を移動する人だけではなく、訴訟や商用など具体的な目的を持って江戸を訪れる人が集まる町でもありました。
交通と行政の両方に関係する立地が、町のにぎわいを生み出していたのです。
馬喰町だけで42軒の旅人宿があった
馬喰町が宿泊の町として栄えていたことを示す具体的な数字があります。
中央区観光協会の地域資料には、江戸時代の馬喰町だけで42の旅人宿があったと記されています。
42軒も宿があったとなれば、数人の旅人がたまに立ち寄る程度の場所ではなかったことが想像できます。
国立国会図書館でも、旅人宿や公事宿が多く、訴訟、商用、見物のために江戸へ出てきた人々でにぎわったとされています。
人が泊まれば、当然その周辺でお金も使われます。
食事をし、必要な物を買い、商人であれば商品の仕入れや取引も行います。
こうした人の流れは、馬喰町が馬市の町から商業の町へ変わっていくうえで重要だったと考えられます。
現在の問屋街だけを見ると「なぜここに商店が集まったのだろう」と感じますが、その前には大量の旅人と商人を受け入れる宿場的な機能があったのです。
横山町とともに問屋街として発展した
現在の馬喰町周辺は、隣接する横山町とともに問屋街として知られています。
中央区は、馬喰町・横山町の問屋街について、繊維をはじめ身辺雑貨、文房具、かばんなどの問屋が軒を連ねる地域として紹介しています。
現在の街の姿だけを見れば、江戸時代の馬市との共通点は少ないように感じるでしょう。
しかし、「人と商品が集まり、そこから別の場所へ動いていく」という役割に注目すると、昔と今には共通する部分があります。
江戸時代には街道を行き交う人々が集まり、旅籠や公事宿が並びました。
その後、商売の集積が進み、問屋街として発展していきます。
町で扱うものは馬から衣料品や生活用品などへ大きく変化しました。
それでも、交通の便利な場所に人と物が集まり、それを商売につなげてきたという土地の性格は続いていると見ることができます。
現代の馬喰町に残る歴史と「馬喰横山」の名前
現在の馬喰町で馬市を見ることはできません。
それでも、歴史の名残は町名や駅名の中にはっきり残っています。
JRには馬喰町駅があり、すぐ近くには都営新宿線の馬喰横山駅があります。
馬喰横山駅の所在地は日本橋横山町で、JR馬喰町駅への乗り換えが案内されています。
馬喰町と横山町は隣り合う町で、中央区には「馬喰町横山町西通り」「馬喰町横山町仲通り」「馬喰町横山町東通り」といった道路愛称もあります。
そのため、この周辺では「馬喰町」と「横山町」の二つの地名を同時に目にする機会が多くあります。
初めて訪れると、馬喰町駅、馬喰横山駅、東日本橋駅という別々の駅名が近接しているため、少し複雑に感じるかもしれません。
しかし町名の歴史を知ったあとで歩くと、「馬喰」という不思議な二文字も、かつてここで馬を扱った人々の記憶として見えてきます。
馬が消え、馬場が消え、商売の内容が変わっても、地名だけは江戸と現代をつないでいるのです。
「馬喰町」名前の由来まとめ
馬喰町という名前は、「馬を食べる町」という意味から生まれたものではありません。
背景にあるのは、牛馬の状態を見極め、売買や仲介などに携わった「博労」と呼ばれる人々です。
馬喰町には馬市があり、伝馬用の馬が供給されていました。
町名の由来には、馬市が立ち博労が多く暮らしていたことに由来する説と、初音馬場を博労頭の高木源兵衛や富田半七が管理していたことに由来する説があります。
ただし、中央区は高木源兵衛や富田半七らが住んでいたという記事を紹介しながら、それが町名の由来であるかは明らかではないとしています。
そのため、「この出来事だけが馬喰町の名前を生んだ」と一つに断定することはできません。
古くは博労町と呼ばれ、正保年間ごろに馬喰町へ改められたと伝えられています。
さらに「博労」は「伯楽」から音が変化した言葉とされ、「馬喰」という表記も同じ系統の呼称として用いられてきました。
江戸時代の馬喰町は馬だけの町でもありませんでした。
奥州街道と結びつき、関東郡代の役宅があったことから、旅人宿や公事宿が集まり、多くの旅人や商人が行き交いました。
やがて周辺は問屋街として発展し、現在も馬喰町・横山町にはさまざまな商品を扱う問屋が集まっています。
江戸時代の馬市も初音の馬場も、現在の街並みからはほとんど見えなくなりました。
それでも「馬喰町」という名前は残り、かつて馬と人と物が行き交った町の記憶を伝え続けています。
何気なく見ていた駅名や住所も、由来を知ると400年以上にわたる東京の歴史が詰まった言葉に見えてくるのではないでしょうか。
